「人取橋の戦い(1586年)」政宗が最も苦戦したという、父輝宗の弔い合戦!

 奥州にその名を轟かせた「独眼竜」こと「伊達政宗」。その生涯において数々の合戦を経験してきていますが、最も苦戦したのが1586年の人取橋の戦いと伝わっています。この合戦はなぜ勃発し、どのような結果になったのでしょうか。今回は人取橋の戦いについてお伝えしていきます。

戦いの発端は弔い合戦

政宗の父親の死

 天正13年(1585)、二本松城城主の畠山義継は、伊達氏と敵対する大内定綱に加勢しましたが、大内氏が敗れたため、伊達氏に降伏。その際に外交の窓口になったのが、安達郡宮森城にいた政宗の父親である伊達輝宗でした。

 輝宗は隠居した後も伊達氏の統治に深く関わっていたことがわかります。しかし、同年の10月8日には義継に拉致され、阿武隈川の高田原で義継もろとも銃殺されてしまいます。銃殺したのは伊達氏の軍勢であり、その場に政宗がいたという説と、鷹狩りで間に合わなかったという説があります。どちらにせよ畠山氏の裏切りで父親を死なせてしまったことは明らかです。

 すでに伊達氏の家督を継いでいた政宗は、初七日がすんだ10月15日には軍勢を率い、畠山氏の居城である二本松城攻めに出陣しました。まさに弔い合戦です。ただし敵方の当主である義継はすでに死んでいましたから、敵の総大将は義継の子で11歳という国王丸でした。

天嶮の山城である二本松城は不落だった

 11歳の幼子が当主で、動揺している畠山氏家中だったでしょうが、後見役の新城弾正がうまく統率し、籠城戦で政宗に対抗します。

 二本松城は天嶮の山城で、簡単に落とせる城ではありませんでした。実際に政宗は二本松城の攻略に苦戦します。これは戦が一時中断した後も同様で、結局のところ力押しや調略でも二本松城を落とすことは最後までできませんでした。

 攻城戦の中、大原に布陣していた政宗でしたが、10月16日に雪が降り始め、翌17日には大雪になったことから戦の継続を断念。小浜城へと帰還します。雪が止めば改めて攻めればいいという考えだったのでしょう。

 政宗が撤退した隙をつき、国王丸は周辺大名へ救援を求める密使を送りました。要請先は佐竹義重、蘆名亀若丸、岩城常隆、石川昭光、白河義親という面々です。彼らもまた伊達氏の勢力がこれ以上南下してくることを懸念していたため、すぐに援軍の支度を開始します。

 『会津芦名一族』によると、佐竹氏をはじめとした連合軍の軍勢は三万ほど、それに対する伊達氏の軍勢は七千ほどだったと記されています。こう比較すると兵力に4倍以上の開きがあったということで、政宗が苦戦を強いられるのも仕方がない状況だったといえるでしょう。こうして伊達氏VS畠山氏の戦いは、伊達氏VS連合軍の人取橋の戦いへと進んでいくのです。

連合軍と伊達氏の軍勢の構成について

 人取橋の戦いの後、天正17年(1589)に作成された『野臥日記』によると、政宗が刈田郡と伊達郡から動員できた兵力は総勢1540人だったと記されています。

 1郡でわずか800人弱しか動員できなかったわけです。しかもその9割以上が百姓です。武士としてギリギリ認められている名懸衆は66人しかいません。これは連合軍も同じような構成だったと考えられます。

 ちなみに天正13年(1585)時点の政宗の支配する領地は6郡あり、大きな置賜郡も含んでいますし、政宗の直属の武士もいたでしょうから五千人から六千人という兵力が妥当なところかもしれません。

 連合軍にしても三万はさすがに誇張しすぎなので、実際はもっとも少ない軍勢の戦いだったのではないでしょうか。どちらにせよ兵力にかなりの差があったことは間違いないでしょう。

危機的状況だった人取橋の戦い

高倉と人取橋が激戦地

 天正13年(1585)11月10日、岩瀬郡須賀川へ進軍した連合軍に対し、それ以上の北上を阻止したい政宗は安達郡岩角城に移り、11月17日には本宮城外に布陣して連合軍を迎え撃ちました。

 本宮は奥州街道と会津街道が交わる要衝の地で、政宗自身はその南側に位置する観音堂山に本陣を置いています。

人取橋の戦いマップ。色塗部分は陸奥国

 攻め寄せてくる連合軍との戦いで、激戦地となったのは五百川沿いの高倉城と観音堂山麓の瀬良川周辺の二箇所でした。高倉では18歳の伊達成実が蘆名氏と岩城氏を相手に奮闘。瀬良川周辺では73歳の老臣・鬼庭良直が佐竹氏と白河氏を相手に死闘を繰り広げました。

 このときあまりにも多くの人が討たれたために、「人取橋」と呼ぶようになったと伝わっています。

 連合軍相手に数で不利だった伊達勢でしたが、成実と良直の活躍によりなんとか日没をむかえ、戦いは翌日へと持ち越しとなりました。結果としてはこの日は引き分けということになりますが、被害を考えると明らかに連合軍の勝利です。この時点で伊達勢は百人以上が戦死しており、奮闘した良直も討たれています。

 連合軍の有利は変わらなかったわけですから、このまま翌日の戦いが始まれば政宗は敗れていたかもしれません。人取橋の戦いは、それほどの激戦であり、政宗の生涯において最も追い詰められた戦いだったのです。

事態の急変と連合軍の撤退

 事態が急変したのは11月17日の夜のことです。佐竹義重のもとに知らせが届きます。義重の留守を突いて、北条氏側に味方している江戸重頼と里見義頼の軍勢が常陸に侵攻してきたのです。

 義重は政宗を撃退するために大軍を率いてきていたでしょうから、本拠地はかなり手薄な状態でした。下手をすると本拠地を落とされるだけでなく、伊達勢と挟み撃ちにあってしまう危険性もありました。

 義重はすぐに常陸に帰還することを決断します。『会津旧事雑考』にはこの夜に、義重の軍師が家臣に刺殺される事件があったと記しています。

 もしかすると政宗による調略が功を奏していたのかもしれません。どちらにせよ佐竹氏が連合軍から離れ、勝手に撤退したのは事実です。

 大黒柱の佐竹氏が抜けたことで、連合軍は瓦解してしまいます。それぞれが自分の領土に引き上げていったのです。つまり11月18日に戦いは行われず、戦は終了しました。

 政宗は敗北を回避できたのです。おそらくこのとき、政宗はホッと胸をなで下ろしたことでしょう。

 政宗は二本松城攻略のため、小浜城にとどまり、そのまま天正14年(1586)正月を迎えています。そして7月、相馬氏の調停のもと、国王丸は本丸を焼いて蘆名氏を頼って落ちていったのです。

 こうして政宗は父の仇討ちに成功し、二本松城を手に入れました。

おわりに

 人取橋の戦いで良直が粘っていなければ、政宗は連合軍の勢いに飲み込まれていたはずです。良直は政宗が本宮城に撤退する時間稼ぎをするために殿で奮闘し、討たれたとも伝わっていますから、もしかすると政宗が討たれるところまで伊達氏は追い込まれていた可能性もあります。そう考えると良直の功績はもっと高く評価されてもいいかもしれません。

 最大の危機を乗り越えた政宗はこの後、さらに領土拡大のため激しい戦を続けていくのです。佐竹氏や蘆名氏からすると、天正13年(1585)の絶好の好機を逃したことを深く後悔したことでしょう。


【主な参考文献】
  • 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。