「広岡浅子」朝ドラ『あさがきた』のモデルの女傑!大同生命の創業や女子大学の創設に関わった大実業家
- 2022/06/14
近代日本経済の黎明期にあって「一代の女傑」と称された人物がいます。大同生命の創業にも関わった実業家・広岡浅子(ひろおか あさこ)です。
浅子は、日本を代表する豪商・三井家に誕生。大坂の加島屋に嫁ぐや、持ち前の商才を発揮していきます。明治になると大阪の経済が停滞。加島屋も存続の危機に瀕することになります。しかし浅子は諦めません。新規事業であった炭鉱事業に乗り出して成功し、同時に加島屋を銀行へと発展させ、のちには日本女子大学の創設や、先に述べた大同生命の立ち上げにも関わっています。
明治を代表する女性実業家であり、近代の女子教育にも影響を与えた広岡浅子。今回はそんな彼女の生涯をまとめてみました。
浅子は、日本を代表する豪商・三井家に誕生。大坂の加島屋に嫁ぐや、持ち前の商才を発揮していきます。明治になると大阪の経済が停滞。加島屋も存続の危機に瀕することになります。しかし浅子は諦めません。新規事業であった炭鉱事業に乗り出して成功し、同時に加島屋を銀行へと発展させ、のちには日本女子大学の創設や、先に述べた大同生命の立ち上げにも関わっています。
明治を代表する女性実業家であり、近代の女子教育にも影響を与えた広岡浅子。今回はそんな彼女の生涯をまとめてみました。
日本を代表する豪商一族に生まれる
三井家の四女として生まれる
嘉永2年(1849)、広岡浅子は山城国京都で、出水三井家(後の小石川三井家)六代当主・三井高益の四女として生を受けました。三井家は日本を代表する豪商です。江戸時代中期には、商業に世に名高い「現金掛け値なし」を導入。現金払いと販売価格の固定によって、多くの顧客を獲得していました。元来の小売業の呉服店に加え、幕府の公金を扱う「為替御用」も担当。三井家は日本の商業を牽引する存在だったのです。
浅子も、幼いながらに三井家の人間としての宿命を背負っていました。嘉永3年(1850)、わずか2歳だった浅子は既に婚約者が決められていました。相手は大坂の豪商・加島屋当主・広岡久右衛門正饒(まさあつ)の次男・信五郎(当時8歳)です。
信五郎は加島屋五兵衛家の養子となり、同家の次期当主となることが決定していました。五兵衛家には、二代続けて出水三井家から嫁を迎えています。両家の関係は「重縁」と呼ばれる深い繋がりがありました。
当時、女子教育は三味線や琴、習字や裁縫といったものが主流です。浅子も将来豪商に嫁ぐ身として、必要な教養を身につけるべく稽古を課されました。しかし浅子は、かなりお転婆なお嬢様でした。稽古を嫌い、丁稚との相撲や木登りなど、体を動かすことを好んだといいます。
一方で浅子は学問にも興味を示しました。兄弟が音読する四書(大学・中庸・論語・孟子)を襖の陰で聞き、書物を引っ張り出しては読んでいました。当時はまだ女子に学問が不要とされた時代です。家人が大反対し、13歳で両親からも読書を禁じられてしまいました。
大阪の豪商・加島屋へ嫁ぐ
慶応元年(1865)、17歳となった浅子は、かねてからの約束通り、加島屋の広岡信五郎に嫁ぎました。当時、大坂は「天下の台所」と言われた一大商業地です。加島屋は多くの諸藩の御用を務めていました。米仲買への入替両替(事業資金の融資)や蔵元(諸般の蔵屋敷の管理)、大名貸し(諸藩への融資)において活躍しています。
浅子が嫁いだ信五郎は、加島屋で枢要な位置にありました。五兵衛家は、分家ながら本家とともに加島屋を支え、当時の長者番付に掲載されるほどの商家だったのです。
しかし、浅子は加島屋のあり方に疑問を感じます。実家の三井家とは商業に対する向き合い方が大きく違っていたからです。主人は番頭や手代に業務を任せ、自らは関与せずにのんびりしていたことから、永久に家業が繁盛するのかどうか、疑わしさを感じたといいます。
こうして危機感を抱いた浅子は、自ら算術や簿記などを独学。積極的に家業に関わるようになるのでした。
明治の女性実業家
明治維新の混乱を、先頭を切って乗り切る
やがて加島屋に大きな試練が訪れます。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いが勃発。旧幕府は敗れ、明治新政府が樹立されることとなります。明治政府は大坂商人たちに御用金の上納を命令。金額は300万両(約3000億円)にも上るものでした。加島屋は長州藩のメインバンクであったため、金穀出納掛という官職に就任。維新の混乱を乗り越えることができています。
しかし明治2年(1869)に加島屋の当主・正饒が死去。加島屋は、信五郎の弟・正秋が当主となります。明治4年(1871)に廃藩置県が断行。天保年間以前の債権は無かったものとされてしまいました。
家業は傾きを見せ始め、すでに倒産するのを待つばかりの状態でした。当時、加島屋の中で最大の発言力を有していた浅子は人事において店長から小僧に至るまでの任免を掌握し、総会等には必ず出席して絶大なる裁断権を行使しています。
また、加島屋には莫大な借財が残されていたことで、浅子は資金融通要請を断るために宇和島藩邸等にも出向いています。結果、気性の荒い足軽部屋で待たされ、一夜を過ごしたこともありましたが、なんとか目的を果たして無事に帰りました。
このように浅子は家業再建のために奔走。明治日本における数少ない女性実業家として、独自の歩みを進んでいったのです。
ピストルを携帯して鉱山へ赴く
両替屋の事業から、浅子は新規事業も始めています。明治17年(1884)、浅子は「広炭商店」を設立。炭鉱事業に参画することとなります。明治19年(1886)には、東京石炭商会と合併。日本石炭会社を設立して、一大石炭商社が誕生しています。しかし、松方デフレからの不況によって石炭価格が暴落し、日本石炭会社は明治21年(1888)に解散の憂き目に遭います。浅子の元に残されたのは融資の抵当だった九州福岡の筑豊にある潤野炭鉱のみでした。
しかし浅子は諦めません。単身で荒くれ者の鉱夫たちの元に乗り込んで指示を出します。浅子は護身用のピストルを持ちながら、鉱夫たちと生活を共にしていました。やがて潤野炭鉱は産出量を急増させ、優良炭鉱へと生まれ変わっていきます。
広岡浅子、女子大学の創立に深く関わる
日本女子大学の創設を後援する
浅子は実業家として、変わらずに前進していきます。明治21年(1888)、加島銀行が創立。加島屋は両替商から近代的な銀行へと変貌を遂げました。やがて浅子は、教育方面へも関心を寄せるようになります。明治29年(1896)、梅花女学校校長・成瀬仁藏が訪問。成瀬は自著『女子教育』を渡して、近代的な女性教育を訴えています。
浅子は成瀬の考えに共感し、女子教育実現のために五千円(現在の価値で約2930万円)という大金を寄付、さらに土倉庄三郎ら政財界の有力者を紹介する等の協力を惜しみませんでした。同年7月には、発起人組織が発足。同メンバーには、渋沢栄一や伊藤博文、大隈重信らも名前を連ねています。
明治31年(1898)に経済不況が襲い、一時は女学校設立も暗礁に乗りかけました。しかし浅子の実家・三井家が目白台の土地を寄付。女学校設置場所の目処が無事に立ちます。
明治34年(1901)、日本女子大学校(現在の日本女子大学)の設立が実現。浅子は発起人の一人に名を連ね、評議員に任命されています。浅子は上京の旅に大学校へ通っては講義を聴講。時には学生に対して講話を行なっていました。
大同生命の立ち上げに参加する
事業家として、浅子は次なる新事業への進出を目指していました。明治32年(1899)には、真宗生命の経営権を取得する形でスタートした朝日生命(現在の朝日生命とは別物です)の創業に関わり、社会公益のために生命保険事業へと乗り出します。ただ、当時は生命保険会社が多すぎて需給バランスを失っている状況だったようです。そこで生命保険会社の乱立を防ぐために、監督省庁である農商務省の検査が各社に入ることになり、多くの会社が姿を消していきました。
そして農商務省は生命保険会社の合併を進めるべく、業界再編の方針を示します。その結果、明治35年(1903)に朝日生命は護国生命・北海生命と三社合併。ここに大同生命保険株式会社が立ち上がることになるのです。
既に加島屋は、近代的な金融企業となり、大阪でも指折りの財閥に成長。その加島屋を実質的に率いていた浅子も、明治の代表的な女性実業家としてその名を馳せていました。
しかし順風満帆であった浅子に悲しい別れが訪れます。明治37年(1904)、夫・信五郎が死去。浅子は最愛の伴侶の死により、事業を娘婿・恵三に譲り、今後は女子教育や社会貢献に専念する道を選びます。
広岡浅子、死に望んで名言を残す
言論活動に取り組む
事業界を離れた浅子は、言論活動に身を投じます。主に日本女子大学校の機関誌を中心に寄稿。明治41年(1908)からは、週刊新聞『婦女新聞』にも寄稿を始めています。快刀乱麻の活躍を見せる浅子でしたが、体に病が見つかります。明治42年(1909)に身辺整理をした上で大学病院に入院。胸部の悪性腫瘍を除去する手術を受けます。
同年末にはキリスト教と出逢います。明治44年(1911)、成瀬から宗教哲学を勧められたこともあって受洗。浅子は婦人運動や廃娼運動にも参加していきます。さらに唯一の自著である『一周一信』を出版。日本のキリスト教化に励み、日本YWCA中央委員を務めるに至りました。
晩年まで女子教育に情熱を燃やす
晩年となっても、浅子は女子教育について情熱を燃やし続けました。大正3年(1914)から同7年(1918)の夏に、別荘の御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰しています。合宿は、共同生活を中心とした大らかなものでした。参加者の女性は、政治や教育、ジャーナリズムや文学といった分野で活躍した人物たちです。参加者には、若き日の村岡花子や市川房枝の姿もありました。
大正8年(1919)1月4日、浅子は腎臓炎のため東京麻布の別邸で死去。享年七十一。死の二日前まで訪問客と社会情勢を論じていたといいます。「普段言っていることが、皆遺言です」との言葉を残しました。葬儀は東京と大阪で2度行われ、日本女子大学校でも全校を挙げた追悼会が開催されています。
【主な参考文献】
- 広岡浅子 『人を恐れず天を仰いで:復刊『一週一信』』(新教出版社、2015年)
- 大同生命HP 広岡浅子の生涯
- 日本女子大学HP 広岡浅子特集
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