「福沢諭吉」慶應義塾大学の創設者にして『学問のすすめ』の著者。その功績と思想を追う!
- 2022/06/13
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉は、明治の教育者・福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)の言葉です。
諭吉は中津藩の下級藩士の子として誕生。漢学を学び始めると学問にのめり込み、才能を開花させていきました。やがて諭吉は苦学しながら適塾に入学。蘭学や化学など、当時世界最先端の学問に触れる機会を得ています。江戸に出た諭吉は蘭学塾を開設。優れた学識を買われて幕府に採用され、三度の洋行を経験しています。
明治政府には出仕せず、教育分野を中心に活動。慶應義塾大学の創設や『学問のすすめ』の発表など、後世に冠たる実績を残し続けました。諭吉は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。福沢諭吉の生涯を見ていきましょう。
諭吉は中津藩の下級藩士の子として誕生。漢学を学び始めると学問にのめり込み、才能を開花させていきました。やがて諭吉は苦学しながら適塾に入学。蘭学や化学など、当時世界最先端の学問に触れる機会を得ています。江戸に出た諭吉は蘭学塾を開設。優れた学識を買われて幕府に採用され、三度の洋行を経験しています。
明治政府には出仕せず、教育分野を中心に活動。慶應義塾大学の創設や『学問のすすめ』の発表など、後世に冠たる実績を残し続けました。諭吉は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。福沢諭吉の生涯を見ていきましょう。
【目次】
中津藩士の子として生まれる
天保5(1835)年、福沢諭吉は摂津国の大坂堂島にある豊前中津藩の蔵屋敷で、下級藩士・福沢百助の次男として生を受けました。母は於順です。諭吉の名は、父が手に入れた『上諭条例』という書物に由来します。天保7(1837)年、父・百助が病没。諭吉たち一家は、大坂から中津へと移住しています。
少年時代の諭吉は、変わった雰囲気を持っていました。早熟な少年で、幼少時から酒を好んでいたといいます。手先は器用でしたが、木登りや水泳は出来ませんでした。
諭吉は当時の武家の常識を疑います。通常の武家の姉弟とは違い、迷信や神仏について疑いを持っていました。実際にお札を踏んだという逸話も残っています。
しかし学問や武術には熱心に励みました。学問では白石常人に師事。漢学を学び始めると、めきめきと学力を伸ばし亭きました。当時、既に諭吉は先輩たちを凌駕。漢学者の前座を務めるほどの学力を備えていました。
蘭学修行で長崎に遊学後、大坂の適塾に通う
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。世情は騒然としていました。しかし諭吉は内職に従事。家計を助けることに精一杯でした。当時の諭吉は、門閥制度に憤りを見せていたようです。「親の仇でござる」と諭吉自身も語り残しています。安政元(1854)年、諭吉は兄・三之助の勧めによって長崎に遊学。砲術家・山本物次郎の書生となりました。一方でオランダ通詞(通訳)や蘭方医に学び、オランダ語を学んでいます。
山本家の客の中には、長州の村田蔵六(大村益次郎)や薩摩の松崎鼎甫らがおり、諭吉は彼らの世話をしながら、多くのことを学んでいます。
やがて諭吉の学力の向上は、周囲に妬まれることとなります。家老・奥平壱岐により、中津への帰還命令が発出。諭吉は長崎を退去する道を選びます。
しかし中津へ帰るつもりはありませんでした。諭吉は江戸に出ることを決意。兄・三之助のいる大坂の中津藩蔵屋敷に現れて相談しています。
三之助は江戸行きを反対したものの、大坂で学問を学ぶように勧めます。蔵屋敷に居候しながら、諭吉は蘭学者・緒方洪庵に師事。洪庵の適塾に通うこととなりました。
大坂・適塾時代
適塾には、数多くの傑物が在籍していました。大村益次郎や幕臣の大鳥圭介、越前の橋本左内など錚々たる面々が門下に名前を連ねています。諭吉は全国でも生え抜きの塾生たちに混じって学業に没頭しました。
途中、諭吉の学生生活は暗礁に乗り上げます。安政3(1856)年、兄・三之助が病没。諭吉は帰郷して福沢家の家督を相続することとなります。
諭吉は学問を続けたい思いでいました。しかし母以外の親類は反対。福沢家には借金があり、学費はおろか返済さえ危うい状況です。
一念発起した諭吉は、家財道具を売却。家の負債を始末して再び大坂に出ます。学費が払えないため、適塾の食客として住み込み生活を開始。学生生活を再開させています。
安政4(1857)年には、最年少の22歳で適塾の塾長(塾頭)に抜擢。生理学や化学などの原書を読み、実験を試みるまでになりました。学問だけでなく、酒と煙草にも触れた塾生生活だったようです。
のちの「慶應義塾」立ち上げと、幕府使節団としての渡米
蘭学に通じた諭吉の存在は、中津藩にも聞こえていました。翌安政5(1858)年、諭吉は中津藩邸の蘭学塾の講師を拝命。藩命によって江戸に出ています。江戸の築地鉄砲洲にある、奥平家中屋敷の長屋の一件に蘭学塾「一小家塾」を開設。これが後の慶應義塾の起源となります。
学問において、諭吉は実学志向でした。安政6(1859)年には、実際に自身のオランダ語を試すべく、横浜の外国人居留地に向かっています。しかし諭吉が学んだオランダ語は通じません。そこで使われていたのは、英語でした。英語の必要性を痛感した諭吉は英語に転向。英蘭辞書を入手し、独学で英語を学んでます。
当時、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、使節団をアメリカに派遣する予定でした。諭吉は洋行の機会を掴むべく、軍艦奉行・木村摂津守善毅の従者に参加。使節団に随行することが決定しました。そして安政7(1860)年1月、諭吉は幕府の軍艦・咸臨丸に乗船。太平洋を横断して、アメリカのサンフランシスコに渡ります。
批准書交換の後、一行は大西洋からルアンダから喜望峰、バタビア、香港を経由して日本に帰国しました。諭吉は旅の中で、中浜万次郎と共にウェブスターの辞書を購入し、日本に持ち帰っています。
帰国後は、木村摂津守の推薦で幕府外国方に採用。中津藩に席を置いたまま、幕臣として英語の力を活かすことなります。
西洋思想の体現者
欧州への洋行
諭吉の渡米経験と英語の能力は、再び幕府に用いられる時がやってきました。文久元(1861)年12月、諭吉は欧州派遣の幕府使節団への随行が決定。翻訳方の一人として期待がかけられていました。文久2(1862)年1月、諭吉らは長崎を出港。インド洋からスエズ地峡、地中海を経てマルセイユに到着します。その後、一行はフランスやイギリス、オランダなどを周り、同年12月に帰国を果たしました。
諭吉らは、欧州の都市を見学しています。病院や医学校、博物館を訪問。万国博覧会では蒸気機関車や電気機器を目にしていました。
実地見学だけでなく、一行は優れた文献資料も確保しています。使節団には幕府から400両が支給されていました。諭吉ら一行は英書や物理書を大量に購入して日本に持ち帰りました。
諭吉はのちに『西洋事情』で旅での経験を記録。銀行や議会制度について詳細にまとめています。
幕府の直参旗本となる
世界を見た諭吉からすれば、日本の問題は山積みだったと言えます。しかし諭吉は、表立って大きな行動には出ていません。文久3(1863)年の日本は、攘夷論が流行。開国派や洋学者は危害を加えられる危険性がありました。
元治元(1864)年、諭吉は幕府の外国奉行支配調役次席翻訳御用を拝命。禄高150俵と15両を得て旗本に列しています。かつて中津藩の下級藩士だった諭吉が、幕臣となったのでした。
当の諭吉は、立身出世より後進の指導に熱を注ぎます。慶応元(1865)年には、公務の傍らで横文字の新聞雑誌などを翻訳。諸般の留守居役に売却して、その収入で中津からの塾生たちの学費を賄っています。
さらに長州征伐でも対応策を上申。『長州再征に関する建白書』を提出して、長州征伐の必要性と戦略を述べています。
明治の洋学者
諭吉に三度目の洋行の機会が訪れます。慶応3(1867)年1月、幕府の軍艦受け取り委員に随行して渡米。東部諸州を見学し、5000両相当にも及ぶ数多くの原書を買って帰国しています。学問に熱心な諭吉は、帰国後に『西洋旅案内』を著述。食事の注意から保険制度の説明までをまとめた一冊でした。翌慶応4(1868)年4月、自らの塾を「慶應義塾」と命名。塾生の指導に熱を入れていきます。
5月には上野戦争が勃発。市中から新政府軍の砲弾の音が頻繁に聞こえていました。その中でも諭吉は、経済の講義を続行。あくまで学問に対して命をかけて臨んでいました。
諭吉は新政府から出仕を要請されるものの固辞。6月には旧幕府からも退官しています。8月には諭吉は帰農。9月には明治と改元されて新時代が始まりました。
しかし諭吉には旧幕臣としての矜持があったようです。翌明治2(1869)年には、遠縁にあたる旧幕府の榎本武揚の助命嘆願を運動。武揚と武揚の母の対面を実現させるなどしています。
しかし近代国家設立のため、諭吉は問題意識を持って行動していました。明治3(1870)年閏10月、諭吉は中津に帰郷。重役から藩政について意見を求められます。諭吉は武備全廃と洋学校の設立を主張します。すなわち武士は不要で、旧来の教育では役に立たないと切り捨てました。諭吉の再従兄で、攘夷派だった増田宗太郎は激怒。諭吉の暗殺を試みています。
諭吉は東京においても、同様に考えていました。東京府は、諭吉に西洋の警察制度を調べるように要請。これに応じて報告書を提出しています。
『学問のすすめ』発表など、明治時代での功績
『学問のすすめ』を発表する
諭吉は近代国家の設立と同時に、人材育成のための教育に力を注ぎました。明治4(1871)年、慶應義塾を三田に移転。翌明治5(1872)年には、慶應義塾敷地(政府からの借地)の払い下げを受けています。同年には『学問のすすめ』を発表。今なお語り継がれる書物を残しました。明治6(1873)年には、自宅で集会を開催。演説討論の練習を始めるようになります。もうすぐ言論の時代が来る、という意識があったようです。優れた諭吉の知識は、世間が放っておくはずはありません。明治11(1878)年、東京府会議員に選出。公的立場から政治に携わることとなります。
明治12(1879)年には東京学士会院(日本学士院)が設立され、初代会長に就任。明治13(1880)年には交詢社を企業し、日本初の実業家による社交クラブの誕生でした。
同年には、大隈重信や伊藤博文、井上馨らと会談。政府の機関新聞紙の引き受けを求められています。政府が国会開設を決意した、と井上は発言。諭吉は公報たる政府機関紙の発行を承諾します。しかし明治14(1881)年には、政変によって大隈が下野。諭吉らも政変に絡んであらぬ嫌疑を受けました。
しかし公報発行の準備は整っていました。諭吉は公報の準備を、自らの新聞発行へ転用。明治15(1882)年には時事新報を発刊しています。
教育や言論において、諭吉は精力的に活動を続けていきました。明治23(1890)年、慶應義塾に大学部が設置。文学や法律、理財の三科を置いています。
明治27(1894)年の日清戦争では、出征兵士の家族支援など慈善事業策を立案。時事新報において伝えています。このときは、実業家の渋沢栄一も企業から寄付金を集めるなど協力。諭吉は『実業論』の中で渋沢に賛辞を送っています。
明治31(1898)年5月には『福翁自伝』を脱稿。しかし9月に脳溢血を発症し、体調を崩し始めます。それでも後進の指導のため、教育分野において活動を続けていきました。明治33(1900)年には『修身要領』を発表。皇室から金5万円を下賜されています。
明治34(1901)年、諭吉は脳溢血を再発。帰らぬ人となりました。享年六十八。法名は大観独立自尊居士。墓所は善福寺にあります。
【主な参考文献】
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む(上)』(岩波書店、1986年)
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む(中)』(岩波書店、1986年)
- 丸山真男『「文明論之概略」を読む(下)』(岩波書店、1986年)
- 小泉信三『福沢諭吉』(岩波書店、1966年)
- 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 福沢諭吉
- 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像 福沢諭吉
- 慶應義塾大学HP 創立者 福澤諭吉
- 東京都北区HP 福沢諭吉と渋沢栄一はどんなつながりがあるのでしょう
- 港区ゆかりの人物データベース 福沢諭吉
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