「吉田松陰」志の実現と弟子の育成に捧げた「至誠」溢れる生涯!安政の大獄で処刑された、松下村塾の指導者
- 2022/08/04
松陰は長州藩の下級藩士の子として生まれます。幼い頃から厳しく育てられ、若くして藩の兵学師範としての道を歩み始めました。兵学で国家を守るため、松陰は多彩な学問と触れ合います。ときには日本の国防調査のために脱藩し、あるときはペリーの黒船に乗り込んで留学を果たそうと試みます。
やがて松陰は松下村塾を開塾。高杉晋作や久坂玄瑞らを弟子に迎え、明治維新の原動力である人材を育成します。しかし安政の大獄によって事態は暗転。松陰は関与を疑われて尋問されることになり、衝撃的な結末が訪れることになります。
松陰は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。吉田松陰の生涯を見ていきましょう。
志と至誠を培った少年時代
下級藩士の子として生まれる
文政13(1830)年、吉田松陰は長門国萩城下にある松本村で、長州藩士・杉百合之助の次男として生を受けました。母は瀧です。幼名は寅次郎と名乗ります。松陰の生まれた杉家は、26石取りという家でした。暮らしは極めて貧しかったため、武士でありながら農業をして生計を立てていたようです。貧しい家の出身で、しかも次男である松陰は、当然家を出るしかありません。天保5(1834)年、松陰は叔父である吉田大助の養子に入りました。
吉田は山鹿流の兵学師範であったため、松陰もその薫陶を受けて兵学を学びます。当時の武士たちにとって、兵学は儒学と並ぶ基本的な学問です。貧しいながらも学問の王道に触れることで、松陰は後に身を立てる基礎を培うことが出来ました。
翌天保6(1835)年、吉田が死去し、松陰は吉田家(57石)の家督を相続しています。兵学師範として吉田家を継ぐため、松陰には周囲から期待がかけられていました。この頃から、松陰はもう一人の叔父・玉木文之進の松下村塾で指導を受けています。
文之進も山鹿流の兵学者でした。松陰を対してはかなり厳格な教育を行い、恐れられたと伝わります。文之進の講義中を受けていたときの話です。松陰は頬に蚊が止まり、たまらずにかき始めました。文之進は怒って松陰を叩きます。「頬をかくのは私ごと。お前は公のために学んでいる」というのが理由でした。
現代でいうところのスパルタ教育ですね。大河ドラマ等では、松陰が叔父の文之進を恐れる姿が描かれています。松陰も文之進には弱かったものと考えられます。
兵学師範のエリート
文之進による厳しい教育は、やがて身を結びます。天保9(1839)年、松陰はわずか九歳で藩校・明倫館の兵学師範見習いに就任。藩士たちを指導する立場となります。天保11(1841)年には、十一歳で藩主・毛利慶親(敬親)に御前で兵学の講義を行い、優れた能力を認められました。十代という若さで、松陰は藩内でも指折りの兵学者となっていたのです。現代でいうところのエリート街道を歩み始めた、というところでしょうか。将来の出世もほぼ約束されたようなものでした。
しかし松陰は既存の枠にとらわれるような人物ではありません。学者というと、机上の論に頼る人物を想像しがちです。しかし松陰は実学的な学問を重視していました。
天保13(1843)年には西洋艦隊撃滅演習を実施。山鹿流の兵学者として、外国船を想定した調練を行っています。当時の日本の周囲には外国船が出没しており、松陰もかなりの問題意識を抱いていました。国防を充実させるため、松陰は山鹿流以外の知識も取り入れていきます。
弘化2年(1845)年には、藩士・山田亦介に師事。当時、山鹿流と並ぶ長沼流の兵学を学んでいます。学問において、松陰は多角的な視点を重視していました。
日本全国の国防調査のために脱藩する
松陰は海外の情勢にも目を配っていました。このとき、アヘン戦争で清国は列強に大敗。結果、半植民地化という道を辿っています。日本の中でも、日増しに危機感は高まっていました。日本を守るべく、松陰は行動を開始しています。まずは最先端の西洋兵学を学ぶ必要性を感じていました。嘉永3(1850)年、九州に遊学。平戸や長崎で諸国の人材と交流し、日本や中国の国防について学んでいます。翌嘉永4(1851)年には、藩主・慶親の参勤に随行して江戸に遊学。西洋兵学の大家である、松代藩士・佐久間象山や山鹿流宗家・山鹿素水に師事しています。
しかし机上の学問だけでは、松陰は満足しません。日本各地における国防について見聞を広めるべく、脱藩を決意します。嘉永5(1852)年、松陰は盟友の熊本藩士・宮部鼎蔵とともに東北を中心とする各地を旅していきました。松陰は会津の日新館や秋田の相馬大作事件の現場を訪問。津軽海峡では、通行する外国船を見ようとしています。しかし江戸に戻ったところで捕縛。士籍を剥奪され、家禄も没収されてしまいました。さらに国許の萩において、七ヶ月の蟄居を命じられてしまいます。
ペリーの黒船に乗り込み、密航を計画
ただ、松陰の熱意は、藩主・慶親にも通じていました。嘉永6(1853)年、松陰は藩から十年間の諸国遊学を許可されて江戸へ向かっています。しかし同年、日本を混乱の渦に叩き込む大事件が勃発。浦賀沖にペリー率いる黒船の来航です。当時の日本人であれば、ペリーに対して恐れおののくか、敵対する感情を持つのが普通でしょう。しかし松陰は他の者とはまったく違うことを考えていました。日本の発展と国防のために何が最良かを見据え、優れた外国文明に触れるために留学しようと決意。そして外国への密航の準備を企てていました。
松陰は同年のうちに、長崎でロシア軍艦への乗船を計画しますが、これは果たせずに終わりますが、まだ諦めずに次の機会を伺っていました。翌嘉永7(1854)年、日米和親条約締結のためにペリーが再来航を果たした際、松陰は驚くべき行動にでています。同郷の足軽・金子重之輔とともに下田港から小舟で出港し、ペリーの乗船するポーハタン号に乗り込み、外国への留学を求めたのです。
しかし、松陰たちの外国への渡航は拒否されてしまいます。その後、松陰と金子は下田奉行所に出頭し、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されて処分を待ちました。当時は海外渡航禁止令が出されている時代です。密航を企てた罪は重罪でした。松陰らは死罪となってもおかしくない状況だったのです。しかし川路聖謨や老中首座・阿部正弘らが死罪に反対したことで、結局は長州へ護送されることとなります。
松陰は国許にある野山獄の座敷牢に入獄。刑期中に囚人らに論語や孟子を講義しています。このときから松陰は尊王攘夷思想に傾倒。次第に倒幕へと傾いていったと考えられます。翌安政2(1855)年には野山獄を出獄。以降、身柄は実家の杉家に幽閉されることとなりました。
松下村塾を開き、弟子たちの指導にあたる
杉家に幽閉となったことで、松陰は社会的に死んだも同然の存在となります。しかし松陰は、次の目的を見据えて行動に出ています。安政4(1857)年、杉家の敷地に松下村塾(玉木文之進の私塾と同名)を開設。高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らを弟子に迎えます。
藩校・明倫館は武士しか入学が許されていませんでしたが、対して松下村塾は町民や農民も学ぶことが可能です。優れた人材の育成のため、松陰が行った先進的な取り組みでした。加えて松下村塾は、時間割のない自由な雰囲気の中で運営されていました。塾生がくれば昼夜を問わず授業が始まります。書物の解釈だけでなく、時事問題を扱った議論も行われています。
カリキュラムの中では、学問にとどまらず水泳や登山も行われていました。松陰は塾生の一人一人に良いところを見つけ、それぞれの能力を伸ばせるように指導しています。松下村塾は九十名以上もの塾生を輩出。明治維新を成し遂げる人材を育て上げました。
安政の大獄に連座して処刑される
やがて松陰たちは、大きな問題に直面します。翌安政5(1858)年、幕府は日米修好通商条約に無勅許で調印。日本中の攘夷派から非難を浴びます。松陰も老中首座・間部詮勝の襲撃を画策し、倒幕計画を藩に持ちかけるまでになりました。しかし、大老の井伊直弼は自身の政治に批判的であった者に対して弾圧を開始します。いわゆる安政の大獄です。全国において多数の逮捕者と処刑者が出たこの弾圧において、松陰も捕縛されて再び野山獄に投獄されてしまうのです。
安政6(1859)年には、安政の大獄の連座する形で江戸に護送され、伝馬町牢屋敷に繋がれた松陰は幕府評定所から取調べを受けることに。このとき、幕府はあくまで尊王攘夷派・梅田雲浜との関わりを調べるのが目的でした。しかし松陰はここで老中・間部詮勝の暗殺計画を告白したため、事態を重く見た幕府が死罪を言い渡すのです。
同年10月、松陰は牢屋敷で斬首されました。享年三十。処刑される前日、松陰は遺書『留魂録』に「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置かまし大和魂」と詠んでいます。これが事実上の辞世でした。
松陰の遺骸は弟子の高杉晋作らが引き取り、回向院に埋葬。後に高杉や久坂らの弟子は、倒幕派として幕府と相対していきます。松陰の弟子たちは、倒幕や明治維新で活躍。日本の近代化に大きく貢献し、国家を支えていくこととなりました。
明治22(1889)年、功績が評価されて正四位を追贈されています。
【主な参考文献】
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