「池田輝政」は大望がありながら、天下人の信頼厚い武将だった!

池田輝政は、ある程度歴史を知っている人であれば、おそらくその名を聞いたことがあるであろう人物である。前田利家より知名度は低いものの、実力的には遜色ないのではないかと私は秘かに思っている。さて、史料はどのような人となりを示してくれるだろうか。

父は池田恒興

池田輝政は永禄7(1564)年、尾張清洲で生まれた。父は織田信長の重臣として名高い池田恒興であった。

元服して照政を名乗る。実は、輝政と名を変えるのは晩年になってからのことだという。元服後の輝政は父や兄の元助とともに信長に仕え、兄弟共々近習に抜擢される。

天正元(1573)年、伯父であった荒尾善久の養子となり、次いで木田城主に就いている。有岡城の戦いでは天正7(1579)年11月に父・恒興と共に摂津倉橋にて従軍したという。

信長の感状

天正8(1580)年には、花隈城の戦いにおいて荒木軍の武将5、6名を討ち取る武功を挙げる。この功により輝政は信長から感状を授けられたという。

ちなみに、兄の元助も荒木元清を破る功を挙げており、こちらは信長から名馬を賜っている。荒木村重の謀反が鎮圧されると、父・恒興は村重の旧領であった摂津を与えられ、有岡城主となる。

天正9(1581)年の馬揃えでは、父の名代として元助・輝政が池田隊を率いて参加している。この辺りから父とは別に隊を率いて行動するようになったと見てよいであろう。

天正10(1582)年の甲斐征伐では兄・元助とともに明智光秀の与力として出陣している。同年6月、本能寺の変にて信長がたおれると、父・恒興はいち早く秀吉を支持し、元助・輝政とともに山崎の戦いに参加した。

6月27日には清洲会議が開かれるが、参加者4名の中に恒興の名が見える。清洲会議は、織田家の継嗣問題及び領地再分配を目的として開かれたが、秀吉派優勢のまま終了した。信長の後継者は秀吉が後見する嫡男信忠の子・三法師に決したのである。

恒興は摂津のうち、大坂・兵庫・尼崎の12万石を拝領。それに伴い輝政は尼崎城主に、元助は伊丹城主に就いている。

準豊臣一族

秀吉と柴田勝家との関係は悪化の一途を辿り、天正11(1583)年賤ヶ岳で両者は激突する。世にいう「賤ヶ岳の戦い」である。

実は、この戦いに恒興は参戦していない。おそらく重臣筆頭格であった勝家に配慮したものと思われる。というのも、輝政と元助は織田信雄軍に属し、秀吉方として参戦しているからだ。この一連の働きが評価され、恒興は美濃大垣城主となる。一方、元助は岐阜城主、輝政は池尻城主となった。

ここまで順調に発展を続けてきた池田家であるが、彼らの前に大きな壁が立ちはだかる。「徳川家康」である。

賤ヶ岳の戦い後、秀吉と織田信雄との関係は悪化していったが、これは当然の成り行きだろう。秀吉もおそらくこのことを想定していたと思われるし、信雄が家康を頼ることも薄々わかっていたのではないだろうか。

池田家が秀吉についたことは言うまでもない。天正12(1584)年、小牧長久手の戦いが起こる。各地で織田方の武将が蜂起し、あたかも秀吉包囲網が形成されたかのようであった。

実は、恒興は当初織田方につく素振りをしていたようだ。しかし、同年3月13日家康が清洲城に到着するや、秀吉方に寝返り犬山城を占拠したところを見ると、あらかじめ秀吉との密約があったことは明らかだろう。

家康は想像以上に手強かったようだ。

一進一退の戦況の中、輝政に衝撃的な報がもたらされる。父・恒興と兄・元助が長久手の戦いで討死したというのだ。これに激怒した輝政は敵陣に突撃をかけようとするも、家臣の番藤右衛門が馬の口を持ち、必死で諌めたと伝わる。輝政はこのことがトラウマとなり、右衛門の加増までも終生見送る始末であったという。

この辺り、寛容で知られる輝政にしては珍しい行動である。ただ、この振る舞いは多分にポーズであったような気がしてならない。

その当時は、確かに右衛門に対して怒りを覚えるのは無理もない。しかし、冷静になって考えれば、突撃によって輝政まで討死してしまっては池田家が絶えてしまう可能性があるのは明らかだ。事実、元助には嫡男・由之がいたが、まだ8歳の幼子であり、輝政が家督を継がなければならないのは明白であった。

自分だけおめおめと生き残るは武士の恥と、激情に駆られて主君が死んでしまっては、残された家臣はたまったものではない。大垣13万石の家臣たちが路頭に迷ってしまうのだ。そんなことは、輝政とて百も承知であったはずだ。

たぶんであるが、武張ったイメージを損ないたくないがためのポーズだったのではないか。私がこのように見立てるのは、輝政を文武に優れた割と計算高い武将だと思っているからだ。

因みに、豊臣政権後期に輝政は武断派として行動しているが、これもいわば偽装武断派だったのではないかと私はにらんでいる。

小牧長久手の戦いの後、輝政は池田家の家督を継ぎ、大垣13万石の当主となり、天正13(1585)年には岐阜を拝領している。

天正18(1590)年の小田原征伐及び、奥州仕置きでは2,800の兵で参戦し、その功により三河吉田城主となった。石高も加増され、15万2000石となっている。同じ時期に豊臣秀次が尾張を任されていることから、秀次の元に配属されたと考えられる。

因みに、秀次は輝政の妹を正室に迎えるなど池田家との結び付きが意外に強い。秀吉は後継者・秀次の片腕として輝政を見ていたのではないか。

そんな中、豊臣政権を揺るがしかねない大事件が起こる。「秀次事件」である。

文禄4(1595)年、関白秀次は謀反の疑い有りとして高野山に蟄居の上切腹と相成ってしまう。この事件には謎が多いが、中でも秀次の妻妾が多数死罪に処するという秀吉の行動は常軌を逸しすぎていて謎は深まるばかりである。

その渦中にあって秀次の正室となっていた輝政の妹は例外的に罪を免れている。輝政に対する秀吉の信頼の厚さをここからも垣間見ることができよう。豊臣政権において輝政は準豊臣一族とも言うべき厚遇を得ていたのである。

播磨姫路52万石の太守

慶長3(1598)年、秀吉が没すると、加藤清正ら武断派と石田三成ら文治派の争いが激化する。仲裁役であった前田利家が翌年に没すると、武断派の七将による三成襲撃事件が起こった。

従来の説では、この七将に輝政も含まれていたが、近年では輝政は七将に含まれていなかったとする説も唱えられているという。

三成との関係はともかく、輝政は秀吉没後、早くから家康に接近していたようだ。おそらく、小牧長久手の戦いで家康の凄さを垣間見た時から、「秀吉様亡き後は家康の時代」と見切っていたのではないか。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、輝政は東軍として参戦している。本戦には参加していないが、岐阜城の戦いにおいて福島正則と共に功を挙げた。戦後の論功行賞では、この岐阜城攻略の功が評価され播磨姫路52万石の太守となったのである。

輝政は播磨姫路を拝領した後の慶長6(1601)年から慶長14(1609)年まで姫路城の大規模な改修に取り組む。その途中には並行して、加古川流域の改修も進めるなど内政も怠りなく進めているのはさすがである。

慶長17(1612)年には正三位参議を下賜され、松平姓を許されて以降は「松平播磨宰相」と称されたという。栄華の最中の慶長18(1613)年1月25日、輝政は前年に患った中風が再発し死去する。享年50であった。

あとがき

池田輝政は秀吉、家康という2人の天下人に仕え、絶大なる信頼を寄せられた武将であったことは間違いない。輝政は割と変わり身が速く、上手いこと勝ち馬に乗ってしまう如才なさを持ち合わせているのにも関わらずである。

私はこの裏には輝政の巧みな処世術が隠されているように思う。それは、身の振り方は迅速に決め、決して裏切らないことではないか。そして、輝政の気性も関係していたであろう。

『名将言行録』には「器度宏大、為人沈毅剛直、寡欲にして大略あり、夙に天下に志を有す」とある。さて、輝政は豊臣秀頼と家康が一戦交えるとなったらどうするつもりだったのだろうか。興味津々である。


【主な参考文献】
  • 中元孝迪『西国将軍 池田輝政 -姫路城への軌跡』神戸新聞総合出版センター 2021年
  • Ban Cul 2014秋号―『播磨が見える 特集:姫路城の“創業者”池田輝政の足跡』 姫路市文化国際財団 2014年
  • 岡谷繁実『名将言行録 現代語訳 』講談社学術文庫 2013年
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社 2000年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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