「中岡慎太郎」土佐陸援隊隊長!龍馬の盟友にして、薩長同盟の真の立役者?
- 2021/11/19
幕末史でもっとも人気のある人物ともいわれる坂本龍馬ですが、彼とともにその時代を生きた多くの魅力的な英傑たちもまた慕われています。維新回天の原動力の一翼を担った土佐藩(現在の高知県)でも、数々の人材が輩出されました。その一人に、土佐四天王の一角に数えられる中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の名が挙げられます。
志士として雄藩連合の実現に奔走し、自ら戦場の剣林弾雨をかいくぐり、そして盟友・龍馬とともに短い命を散らした土佐の好漢。その人柄・見識を惜しんで多くの維新の元勲が称えたという、中岡慎太郎の生涯をみてみることにしましょう。
志士として雄藩連合の実現に奔走し、自ら戦場の剣林弾雨をかいくぐり、そして盟友・龍馬とともに短い命を散らした土佐の好漢。その人柄・見識を惜しんで多くの維新の元勲が称えたという、中岡慎太郎の生涯をみてみることにしましょう。
出生~青年時代
中岡慎太郎は天保9年(1838)4月13日、土佐国安芸郡北川郷柏木(現在の高知県安芸郡北川村柏木)の中岡小伝次の長男として生を受けました。中岡家は大庄屋という身分で農民ですが、苗字帯刀を許された士と農の橋渡しを担う重要な位置付けでした。土佐では特にこの庄屋層が有力で、たとえば後に土佐四天王の一人に数えられる天誅組の「吉村寅太郎」も同様の身分出身です。
慎太郎ははじめ福太郎、のちに光次を名乗り、諱には為鎮や道正を用いました。長じては志士活動で本名を隠すために多くの変名を名乗ったことも知られ、寺石貫夫・石川誠之助・大山彦太郎・横山勘蔵などが記録に残っています。号には迂山・遠山があり、これは慎太郎の師・武市瑞山(半平太)にあやかったものと感じられます。
慎太郎は安政元年(1854)、13歳頃に藩士の間崎哲馬から詩書を学び、同4年(1857)には武市瑞山の道場に入門して剣術を学びました。武市道場の流派は、将軍家指南役としても広く知られる一刀流でした。
19歳の頃には北川郷の大庄屋見習となり、凶作時には先頭を切って村民の救済にあたりました。文書での記録はありませんが、このとき慎太郎は将来的な産物としてユズの栽培を奨励したと伝承されており、現在高知県ではこれが特産物となっているのは周知の通りです。
土佐勤皇党入党~脱藩
慎太郎が剣術の師である武市瑞山を深く敬愛していたことはよく知られていますが、文久元年(1861)に瑞山が江戸で結成した土佐勤皇党に加盟したことにより、志士としての活動を本格化させます。翌文久2年(1862)10月には、郷士・足軽・庄屋で構成された「五十人組」の伍長として江戸へと出府。これは藩の正式な許可を得る前の、申請だけをして出国する「願い捨て」の行動だったとされています。同年末には長州の久坂玄瑞らとともに水戸を経由して松代の佐久間象山を訪問し、見識を深めています。
文久3年(1863)1月に京へと至り、この間に「慎太郎」と名乗るようになりました。同月には土佐藩主・山内容堂が入京。慎太郎は「御旅中御雇徒目付」の役に任じられ、他藩との応接といったいわば外交任務に就いています。同年の4月には容堂に従って帰国しますが、その年に勃発した「八月十八日の政変」後に始まった土佐藩内での勤皇党弾圧を受け、10月19日に脱藩を決行しました。
慎太郎は脱藩前、かつて襲撃を計画した乾退助(板垣退助)を訪ねています。八月十八の政変後に失脚した退助は、尊王攘夷の志を同じくする慎太郎の人柄と胆力に胸襟を開いたといわれています。
志士活動時代
土佐を脱藩した慎太郎が向かったのは、かねてより交流のあった長州でした。そこでは同様に脱藩志士たちが集まっており、慎太郎はそのリーダー格として重要な役割を担ったといいます。政変により周防国(現在の山口県防府市)三田尻に落ち延びていた三条実美に衛士として仕えました。またこの間に薩摩藩士らとも知己を得、中村半次郎(桐野利秋)とも面識をもちました。
元治元年(1864)7月、長州勢力が京都御所を襲撃した禁門の変では、慎太郎は遊撃隊士としてこれに参戦。負傷して三田尻へと退いています。しかし同年の第一次長州征討で、11月18日に自刃した真木和泉の後任として忠勇隊総督に就任。功山寺で三条実美ら都落ちした公卿を護衛しました。
翌慶応元年(1865)1月、長州征討終結に伴い、三条実美ら五卿を太宰府に遷座する交渉を薩摩の西郷隆盛らと行い、これに随行します。このとき、筑前藩・対馬藩の勤皇派志士らが推進した薩長同盟計画に深く関与することとなりました。慎太郎は西郷隆盛と実際に面会した印象を乾退助(のちの板垣退助)に書簡で報告しており、師の武市瑞山の誠実さに似てなお学識で優る「洛西第一の英雄」と絶賛しています。
同年5月、この薩長連合工作に坂本龍馬が合流。慎太郎と龍馬がその実現に中心的な役割を果たすこととなります。その年の冬、慎太郎は後世にもその名が知られる有名な論文、『時勢論』を執筆します。
基本的な考え方としては富国強兵の根源を「戦の一字」にあるとするものですが、諸外国勢力の脅威を冷静に指摘し、日本という国家が目指すべき在り方を説こうとしています。また、これに続く政治論文ではロシアの南下政策を予見するなど、国際情勢に鋭い観察眼を有していたことがうかがえます。
志士としての活動と時勢への実体験を通じ、慎太郎は単純な尊王攘夷から雄藩連合による政権奪取へとその思想を固めていきます。慶応2年(1866)1月に締結された薩長同盟はその大きな一歩だったといえるでしょう。慎太郎はこの時期には軍制改革の必要性を強く感じていた形跡があり、その草案となる論文を土佐の同志に回覧していたことが分かっています。
慶応3年(1867)春、慎太郎は龍馬とともに脱藩罪を赦免され、土佐藩に復帰します。5月には乾退助を西郷隆盛に紹介、倒幕への薩土密約のお膳立てをするとともに土佐と安芸藩(現在の広島県)とのパイプ構築にも尽力しました。
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陸援隊結成~最期
あくまで武力討伐がその方針であった慎太郎は、乾退助と連携して土佐の軍制改革にも関与することになります。退助は弓隊を廃止してこれを銃砲隊に置き換え、近代洋式化軍隊への変貌を加速させていきます。慎太郎は長州の奇兵隊を参考とし、同年7月に京都白河の土佐藩邸を本拠に「陸援隊」を組織。その初代隊長に就任しました。龍馬の海援隊と対で語られることも多いこの組織ですが、こちらは純粋な戦闘部隊として正式な土佐藩の遊撃軍に編入されています。
既に述べた通り、武力倒幕を志向していた慎太郎は必ずしも龍馬と同じ意思のもとに行動していたわけではなかったと考えられています。そのため、同年10月の大政奉還に対しても否定的で、薩長を中心として挙兵する必要性を説いたことが書簡などで確認できます。
11月15日、慎太郎は京都四条の近江屋に龍馬を訪ねます。このとき京都見廻組の襲撃を受けて龍馬は死亡。慎太郎は全身十数か所を斬られる重傷を負いながらもまだ息があり、絶命するまでのおよそ2日間で谷干城らに事の詳細を語りました。現在知られている近江屋事件の情報は、このとき慎太郎が語ったことによって伝わっています。
満29歳という短い生涯を駆け抜けた慎太郎は京都・霊山に龍馬らとともに埋葬されました。また、故郷である北川郷の中岡家墓所には、慎太郎の遺髪塚が建立されています。
おわりに
坂本龍馬の華々しい事績の影で、これまで目立ちにくかった感のある中岡慎太郎。しかしその見識・人柄・力のどれをとっても、同年代の志士たちから惜しみない評価を受けた人物でした。慎太郎の死後陸援隊を率いた田中光顕は、剣をとって戦えば龍馬よりも慎太郎が上であっただろうと述懐しています。そんな慎太郎ですが、印象的な肖像写真が2枚残されていることが知られています。1枚は大刀を手に端座した、精悍な姿。もう1枚は頬杖をついて微笑むリラックスした姿。実はこちらの写真は半分ほどがちぎられており、隅にはあでやかな着物が見えることから女性と一緒に写したと考えられています。
剛と柔、両面をあわせた慎太郎の人間的な魅力が凝縮されているかのように感じられます。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 高知県立坂本龍馬記念館 中岡慎太郎旧邸 中岡慎太郎遺髪埋葬地
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