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エリザベス・サンダース・ホームは、戦後駐留軍との間に生まれた子供たちを守り抜いた神様の館だった
- 2025/06/03

エリザベス・サンダース・ホームってご存じですか?それは、第二次世界大戦後の荒廃した日本において、進駐軍兵士と日本人女性との間に誕生した、多くの孤児のために設立された救済施設です。
親に捨てられ、食べ物もなく飢えに苦しむ、行き場のない子供たちの惨状を見て、子供たちの母親になると決めた澤田美喜が創設した児童養護施設です。神奈川県中郡大磯町にあり、学校法人聖ステパノ学園小学校・中学校が併設されています。
親に捨てられ、食べ物もなく飢えに苦しむ、行き場のない子供たちの惨状を見て、子供たちの母親になると決めた澤田美喜が創設した児童養護施設です。神奈川県中郡大磯町にあり、学校法人聖ステパノ学園小学校・中学校が併設されています。
戦争混血孤児のために
1948年、厚生省が発表した全国孤児調査結果では、戦争孤児の数はなんと約12万人。焼け跡となった街には、浮浪児が溢れかえっていたのです。そんな中、戦災孤児たちは保護施設に収容されるのですが、敗戦が原因とされる新たな孤児も生まれていました。その孤児の数は、1953年に厚生省が行った実態調査によると、約4千人も。同時にその内の84%が白人系で、11%が黒人系であったことが判明しています。更には、行政が把握していない子供たちや、生後すぐに命を亡くした赤ちゃんを含めれば、人数はさらに上回るものと推測されました。
この状況に、GHQも日本政府も孤児たちの存在が世間の注目となることを嫌い、積極的に救済をしようとはしませんでした。そんな最中、その現状を憂いた女性がいました。その人は澤田美喜といい、敬虔なクリスチャンでした。彼女は不幸な境遇にある混血孤児たちの母親代わりになることを決意し、1948年に「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設したのです。
人種差別の中
当時、外国人との間に誕生した子どもたちは、戦災孤児たちと同等に施設に入所したのに、孤児への偏見・風俗女性への排斥感情・人種差別・敵国への憎悪感などが重なって、疎まれたりさげすまれたりしたのでした。特に肌の黒い子どもたちには、激しい差別にさらされます。もちろん本人たちには何ら罪を犯したりもしておらず、責任もありません。そんな過酷な境遇に晒されて子どもたちの生活と心を必死に守り、未来へと繋いだのが澤田美喜だったのです。
不幸な境遇の子供たち
第二次世界大戦後、占領のために日本に来たアメリカを中心とした連合国軍兵士、その兵士と日本人女性の間に、強姦・売春・自由恋愛などが蔓延った結果に生まれたのが、不幸な境遇となる子供たち。両親はおろか、周囲からも見捨てられたGIベビーと呼ばれる混血孤児たちです。そんな子供たちのための施設として「エリザベス・サンダース・ホーム」は造られました。エリザベス・サンダース・ホームの由来
創始者の沢田美喜は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘です。1948年、財閥整理委員会によって財産税として物納される寸前だった岩崎家大磯別邸を、自らGHQに出向いて、日本政府に指令を出すように掛け合い、360万5千円を払うことで大磯別邸の保持を勝ち取ります。これでなんとか施設の建物を確保したのですが、財閥親族が財産を取得することは許されないため、名義は教会としました。
運営の資金は自らの所有物をほとんど売却し、更に募金集めに奔走してかき集めます。施設の名前は、40年にもわたって日本に住んだイギリス人女性であり、聖公会の信者だったエリザベス・サンダースとしました。これは彼女が1946年10月に亡くなった際、170ドルを遺贈してくれたことにちなんだものだそうです。
そして何とか、混血孤児たちが安心して住むことのできる「エリザベス・サンダース・ホーム」が誕生したのです。
聖ステパノ学園小学校・中学校
そして子供たちは当然成長していくもの。孤児院出身の子どもたちが、小学校や中学校に上がる年齢になり進学しても、学校生活において混血児への偏見・迫害によることから、ホームの中に小学校・中学校も設立することになりました。
小学校は、1953年に創立されました。聖ステパノ学園小学校の名称は、美喜の戦死した三男・晃の洗礼名から付けられたものです。そして1959年には中学校も併設されます。
日本でも混血児に対する偏見や差別が薄らいだ1993年より、外部の一般家庭の子どもたちも募集するようになり、小学校・中学校ともにキリスト教学校教育同盟に加盟したのです。
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