【大分県】臼杵城の歴史 大友宗麟が築いた軍艦島

臼杵城跡(臼杵公園)
臼杵城跡(臼杵公園)
 大分市の南にある臼杵市(うすきし)には、海に臨むような小高い丘があります。そこは臼杵城址といい、かつては丹生島を利用した海城が存在していました。永禄期に大友宗麟に築いたとされ、その姿はきっと海に浮かぶ軍艦のように見えたことでしょう。

 元々、大友氏は北西へ20キロの府内に本拠を構えていたのですが、宗麟はなぜか臼杵に城を築き、府内から城下町を移転させているのです。その謎を探りつつ、臼杵城の歴史をご紹介していきます。

臼杵と大友氏

 臼杵の地は、古くから東九州における文化の中心地として栄えていたようです。11世紀後半~12世紀半ばには臼杵荘が興り、権門が領する寄進地系荘園として存続しました。

 この時期、大神武士団の棟梁である臼杵氏が地頭に任じられましたが、文治2年(1186)に臼杵惟隆が、宇佐八幡宮へ乱入した罪を問われて流罪になると、代わって北条一族が支配権を握っています。

 やがて14世紀後半には大友氏の直轄領に編入され、応永8年(1401)頃に、臼杵氏が地頭として配置されたようです。この頃の臼杵氏には大友庶家の血統が入っており、正しくは大神系臼杵氏ではなく、大友系臼杵氏となっています。

 さて、大友氏は19代目にあたる大友義長の頃から勢力を伸長し始め、跡を継いだ義鑑の代になると、豊後・豊前・筑前・肥後などを支配下に収めました。

 ところが嫡男・義鎮(のちの宗麟)を廃嫡し、側室の子・塩市丸を跡目にしようと企んだことで、重臣との間で紛糾が生じます。そして天文19年(1550)、家臣の津久見美作・田中蔵人らによって、義鑑は殺害されてしまうのです。

 こうして義鎮が第21代目の当主となり、大友氏はここから戦国大名として飛躍を遂げました。

キリシタン大名でも知られる豊後の戦国大名・大友宗麟(瑞峯院所蔵、出典:wikipedia)
キリシタン大名でも知られる豊後の戦国大名・大友宗麟(瑞峯院所蔵、出典:wikipedia)

大友宗麟が臼杵へ本拠を移した理由とは?

 永禄元年(1558)、防長経略によって周防・長門を手に入れた毛利氏が、九州の関門にあたる豊前・門司城を陥落させました。その奪還を狙っていた義鎮は、永禄4年(1561)になると大軍を差し向け、両軍の間で激しい戦いが起こります。

 ところが大友軍は苦戦に陥り、退却中に追撃を受けたことで、大きな打撃を被ってしまいました。豊前一帯の武士が毛利氏へ靡く結果となり、次第に大友氏の威勢は衰えていきます。

 こうなると防備が弱い府内の館では心もとなく、居所の移転を考えるしかありません。義鎮は出家して宗麟と名乗っていましたが、家臣らと相談した結果、臼杵の丹生島がその候補地となったのです。

 と、ここまでが臼杵城に関する通説ですが、近年の研究によって新たな説が唱えられています。

 実は、弘治2年(1556)に家臣・小原鑑元の謀反事件が起こっており、乱を避けるために宗麟は臼杵城を築いて移り住みました。ところが翌年になると、宗麟の居所が焼失したことから府内へ戻っています。永禄6年(1563)に居所の再建が成り、再び臼杵へ移った宗麟は、そこで領国内の政治をおこなったことがイエズス会の書簡によって確認できるのです。

 従来までの通説では、単に宗麟個人の隠棲・避難場所として評価されていたのですが、新たな政治の場として臼杵城が機能していたことを示すものでしょう。ただし、府内も依然として政庁都市として存在していました。天正6年(1578)、宗麟の跡を継いだ大友義統が府内へ移ったり、4年後には再び臼杵へ戻るなど、本拠地が一定しない状態が続いています。

 おそらく大友氏の領国内では、この2つの都市が拠点として機能していたのでしょう。ただし家臣の中には、府内で暮らす者もいれば、臼杵で館を構える者もいます。拠点が分かれてしまったことで、家臣団の意思疎通に齟齬や矛盾が生じ、それが耳川合戦(1578)の敗北に繋がったと見る向きもあるようです。

 そして宗麟が臼杵城を築いた理由として、以下の説が挙げられます。

  • 府内に替わる新たな防御拠点を築くため
  • 宗麟自身の将来的な隠棲に伴うもの
  • 南蛮貿易・対明貿易を行うのに利便性が良い
  • 姻戚関係にある伊東氏・土佐一条氏との連携が可能

 確かに丹生島は四方を海に囲まれた天険にあり、海上交通の利便性もすこぶる良好な地でした。次に大友氏時代の臼杵城がどのようなものだったのか?ひも解いていきましょう。

大友氏時代の臼杵城

 大友宗麟が臼杵城を築いた丹生島は、北と南に入り江を持っていて、いわば海へ突き出すような形をしています。また四方が海で断崖だったことから、石垣を築く必要もなければ、堀を掘削する手間もかかりません。城を構えるにはうってつけの地でした。

臼杵城の位置。地図を最大まで拡大すれば臼杵城の形状もわかります。

 『臼杵七島記』によれば、新城を丹生島に築く決意を固めた宗麟は、永禄6年(1563)正月から工事に取り掛からせ、8月には移り住んだといいます。

 果たしてどんな城だったのか?ここで「陰徳太平記」の記述を引用しましょう。

「大友家代々の家城は、豊後大分郡府内にて有けるが、宗麟一年丹生島に別館を建てて御座し、此地の風景に弥心を寄せられ、武運長久子孫繁栄の地なればとて、永禄六年に縄張して、城郭を経営あり。
其地の勝絶なるや、錦官城の水色清く、杭州の山容巧みなるに、五歩に一楼、十歩に一閣を構へ、江嶺の奇材異石を発し、海内の嘉木異草を求め、月を望める廋亮が楼、釣を垂るる厳陵の堂、各地勢を抱き風致を牽く」

 素晴らしい景色を望み、庭には高価で珍しい石や草木が配され、あちこちに堅牢で豪華な建物があったことがうかがえます。

 ただし「陰徳太平記」は、江戸時代中期に編纂された軍記物ですから、どこまで実相を捉えているかは不明です。それを差し引いても、北九州の太守らしい豪華絢爛さだったことは確かでしょう。

 後年、豊臣系大名が改修を施したことで、大友氏時代における城の構造はわかりません。しかし天守台の地下からは、大友期と考えらえる薬研堀が検出されており、二の丸の護国神社北側で行われた発掘調査では、500点を超す土師器や、大友氏時代の火災処理層が確認されています。つまり、そこに何らかの主要建物があったことを示すものでしょう。

豊薩合戦で戦場となる臼杵城

 天正6年(1578)、大友氏は耳川の戦いにおいて島津氏に大敗を喫し、有能な家臣の多くを失いました。ここから宗麟の威光はすっかり衰え、天正14年(1586)には島津氏の本格的な侵攻を受けてしまいます。これが豊薩合戦です。

 同年12月、臼杵城は島津家久の軍勢に囲まれますが、かねてから宗麟が購入していた新兵器が役立ちました。それが「国崩し」と呼ばれるフランキ砲です。島津兵は、その威力よりも大きな音に驚きました。「大友興廃記」はこのように記しています。

「先年南蛮国より渡たる、国崩しといふ大の石火矢城中にあり、武宮武蔵守に仰付らる。武蔵守御諚に依て、薬壱貫目程込て、大玉の外に小玉を、是は計て二升込む。
小玉は四匁、五匁、又は六匁の玉あり。扨、武蔵守町段を見計て、大手口より三町四五段に見すへ打かけしかば、其響き山にとほり、海にこたへて夥し。大木の柳の一枝より上をずんと打折る。大小の玉に当り、柳に押されて、若干の死人、其数をしらず」

 国崩しの砲撃で若干の死者は出たものの、山にこだまし、海に響き渡る砲声は、さぞかし薩摩隼人たちの肝を冷やしたことでしょう。島津軍は臼杵城を囲むばかりで手を出せず、豊臣軍の来援に伴って撤退していったのです。

 豊臣秀吉の九州攻めが終わった直後、宗麟が亡くなりました。すでに家督を継いでいた義統が、実質的な国主となりますが、あるじを失った臼杵城には、臼杵鎮理が城代として入っています。

近世城郭に生まれ変わった臼杵城

 文禄2年(1593)、大友義統が秀吉の不興を買ったことで改易となりました。その後、福原直高が入封しますが、慶長2年(1597)に杵築城へ移ったことで、太田一吉が3万5千石で臼杵城へ入っています。

 しかし関ヶ原の戦いで西軍に属したことで一吉は改易され、代わって稲葉貞通が5万石の大名として臼杵城へ入城しました。

臼杵藩初代藩主となった稲葉貞通(月桂寺所蔵、出典:wikipedia)
臼杵藩初代藩主となった稲葉貞通(月桂寺所蔵、出典:wikipedia)

 慶長7年(1602)、貞通は臼杵城の大々的な改修に取り掛かり、その子・典通の2代にわたって工事が続けられたといいます。藩内に倹約を旨とする通達を発していることから、諸事金の掛かる改修工事を意識したのでしょう。

 この太田氏・稲葉氏の時代に、臼杵城は大々的に改修され、城下町の整備が進められました。まず本丸・二の丸は総石垣造りとなり、三重の天守が設けられています。

 また城下町が形成されていた「祇園洲」という沖積地を埋め立て、新たに三の丸を造営することで、家臣の屋敷地として機能させました。

 ちなみに三の丸と丹生島の間は、今橋と古橋という2つの橋で結ばれていたそうです。

江戸中期~末期における臼杵城の縄張り(『日本古城絵図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸中期~末期における臼杵城の縄張り(『日本古城絵図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 さらに大手門を東向きに直し、枡形を造り、堀を掘削するなど工事は続き、ようやく臼杵城は近世城郭に生まれ変わりました。

 延宝3年(1675)には更なる改修が加えられ、31の櫓と7つの櫓門を備える豪壮な城へと変貌を遂げています。

 稲葉氏は幕末に至るまで15代続き、明治になって廃藩置県を迎えました。明治6年(1873)には多くの建造物が撤去され、臼杵公園として整備されています。ところが、明治10年(1877)に起こった西南戦争が、臼杵城に戦火を及ぼしたのです。

 薩軍が接近してきた時、臼杵の士族で構成される留恵社は、17歳以上の者を集めて800名の臼杵隊を結成しました。しかし鉄砲が不足していたこともあり、臼杵城はたった一日で落城。多くの死傷者を出しました。その後、新政府軍の援軍が到着したことで、城の奪還に成功しています。

 そして現在、城跡には畳櫓や卯寅口脇櫓が現存し、平成13年(2001)には大手櫓門が復元されました。また三の丸には稲葉家下屋敷が往時のまま残っており、在りし日の臼杵城の面影を伝えているのです。

復元された大手櫓門
復元された大手櫓門

おわりに

 臼杵城は別名「丹生島城」と呼ばれるように、一つの島を要塞化した城郭でした。今でこそ周囲は埋め立てられたものの、城跡を下から眺めてみれば、その要害堅固ぶりがわかるはずです。

 また二の丸には、島津軍を恐怖させた「国崩し」のレプリカが鎮座しており、かつての激戦の様子をしのばせてくれます。

国崩しのレプリカ
国崩しのレプリカ

 もし臼杵城の歴史を知るなら、臼杵市歴史資料館を訪れてはいかがでしょうか。3万5千点に及ぶ史料が所蔵されていて、絵図や書画をはじめ、大友氏・稲葉氏にまつわる展示が盛りだくさんとなっています。

 歴史資料館へ立ち寄ってから、臼杵城を見学するのがおすすめです。

補足:臼杵城の略年表

出来事
応永8年
(1401)頃
大友氏の庶流・臼杵氏が臼杵荘の地頭となる。
永禄6年
(1563)
丹生島に臼杵城が完成。大友宗麟が本拠を移す。
天正14年
(1586)
臼杵城攻防戦。宗麟、島津氏の攻勢を退ける。
文禄2年
(1593)
大友義統が改易となり、代わって福原直高が入部する。 
慶長2年
(1597)
福原直高に代わって太田一吉が臼杵城へ入る。
同年臼杵城の改修・拡張工事が始まり、三の丸が造営される。
慶長5年
(1600)
太田一吉、臼杵城に立て籠もるも黒田如水の勧告により開城。
同年美濃郡上八幡より、稲葉貞通が5万石で入城。臼杵藩初代藩主となる。
慶長7年
(1602)
臼杵城の改修工事が始まる。
延宝3年
(1675)
総石垣の城となり、改修工事が完成する。
宝暦13年
(1763)
火災によって二の丸・三の丸が全焼。
明治6年
(1873)
廃城令により一部を除く建造物が撤去され、臼杵公園となる。
明治10年
(1877)
西南戦争が勃発。薩軍によって落城。
昭和41年
(1966)
県の史跡に指定される。
平成13年
(2001)
大手櫓門が復元される。
平成29年
(2017)
日本続100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 岡寺良・中山圭ほか「九州の名城を歩く 熊本・大分編」(吉川弘文館 2023年)
  • 八木直樹「豊後大友氏」(戎光祥出版 2014年)
  • 小柳和宏「大友宗麟の城郭」(戎光祥出版 2020年)
  • 西ヶ谷恭弘「47都道府県・城郭百科」(丸善出版 2023年)
  • 臼杵市教育委員会「臼杵城再生整備事業に伴う発掘調査」(2010年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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