【広島県】三原城の歴史 駅から徒歩0分!?小早川隆景が築いた海城

三原城址
三原城址
 駅に降り立つと、ホームから間近に見える城ってありますよね。例えば明石城や福山城など、気軽に降りて散策できそうです。ところが、本丸の真上に駅がある城をご存知でしょうか。それが小早川隆景の築いた三原城です。

 なぜそんなことになったのか?三原城の歴史をひも解きつつ、ご紹介したいと思います。

小早川隆景が築いた初期の三原城

 天文13年(1544)、毛利元就の三男・隆景は、小早川氏の分家筋にあたる竹原小早川家の養子となりました。その後、本家の小早川繁平が病弱だったことから、沼田小早川家を継承したうえで高山城へ入ります。

 天文21年(1552)になると、隆景は高山城の対岸に新高山城を築き、そこを新たな本拠としました。

 居城を移した理由については諸説あるものの、本家を継いだばかりの隆景にとって、家臣団の制御は必要不可欠だったようです。あえて自らの力を誇示することで、家臣たちを統制したかったのでしょう。

 さて、『小早川家系図』によれば、隆景が三原城の築城に取り掛かったのは、永禄10年(1567)のことでした。小早川水軍の停泊地を確保する必要があったため、早くから沼田川河口に位置する三原に注目したといいます。そして河口にあった大島と小島を繋いで埋立地とし、そこに広大な縄張りを持つ城を完成させたのです。

三原城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 ちなみに「三原要害」と呼ばれる城も記録に表れますが、隆景が新高山城へ本拠を移した翌年、家臣が三原要害の在番を命じられていることから、三原城の北に位置する桜山城ではないか?と指摘されています。

 海に面した三原城と、山城の桜山城は、ちょうど一対となって機能したのかも知れません。

 永禄11年(1568)には、毛利・小早川勢が「鞆・笠岡・尾道・三原・忠海…津々浦々出船」と、伊予へ向けて出帆した記録があり、すでに三原城が出撃拠点として整備されていたことがうかがえます。

 やがて織田信長との対立が激化すると、三原城の重要性は増していきました。出陣中の毛利輝元が滞在するなど、前線基地としての役目も担ったようです。

 また天正8年(1580)から2年にわたって改修工事が行われ、城の規模は大きくなったと考えられます。ただし文献史料が乏しいため、当時の三原城がどんな姿だったのか、よくわかっていないのが実情です。

隆景、三原城へ本拠を移す

 対織田戦の出撃拠点となった三原城ですが、まだ隆景が本拠を移すまでには至っていません。

「来る十二日、三原に至り出張候間、同日にかの津へことごとく相揃うべきの由、諸警固衆へ相触れらるべく候」
天正九年三月六日付、隆景書状

 とあるように、依然として三原が本拠でなかったことがうかがえます。しかし織田との戦いが終結すると、三原へ本拠を移す意思が見え始めてくるのです。

「三原屋敷配り申し付け…両三人輪番に仕られ、五日に一度見廻られ候て…家々出目入目これなきように小路、直に申し付けらるべく候」
天正十一年三月三日付、隆景書状

 三原において屋敷の配分や、路地の整備を進めていた様子が確認されます。また同時期に城下町の整備も完成したのでしょう。

「高山より移られ候事、去る二日、相調えの由各所より申し下し候…まずもって女房衆相移られ御在宅肝要候」
(天正十一年十二月六日付、乃美三郎兵衛宛隆景書状

 これは城下町の整備に伴い、家臣や女房衆が天正12年(1584)までに、三原へ移るよう指示した文書です。おそらく隆景自身も、この時期に新高山城から三原城へ本拠を移したと考えられます。また新高山城周辺にあった寺社なども三原へ移されました。

 しかし毛利氏が、豊臣秀吉の政権下に入ったことで、隆景は多忙を極めます。天正13年(1585)には伊予へ出兵し、天正15年(1587)になると九州へ出陣。さらに小田原攻めや朝鮮出兵などが度重なります。

 また毛利氏の宿老として吉田郡山城へ出向いたり、上洛する機会も多かったことでしょう。三原で腰を落ち着ける時間などなかったはずです。

三原駅北のロータリーの「隆景広場」にある小早川隆景の像
三原駅北のロータリーの「隆景広場」にある小早川隆景の像

隆景の隠居地となった三原城

 文禄3年(1594)、秀吉の甥にあたる羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)が、隆景の養子として迎えられました。

 通説によれば、これをもって隆景は家督を譲り、隠居したとされていますが、実際には文禄5年(1596)以降のことと指摘されています。

 なぜなら小早川家臣のうち、旧毛利系・旧小早川系のほとんどが、秀俊ではなく隆景に仕えているため、毛利系小早川氏・豊臣系小早川氏に分裂していたことがわかります。しかも秀俊が「筑前中納言」と呼ばれたいっぽうで、隆景は「三原中納言」と呼ばれており、この時点においては別家と見るべきでしょう。

 文禄4年(1595)9月、すでに筑前・筑後を与えられていた隆景は、秀俊に筑前・名島城を明け渡しました。11月になると、三原にいた家臣・国貞景氏にこんな指示を出しています。

隆景:「12月頃には三原へ赴くから、門や櫓の建築は計画通りに進めることが肝要である。もちろん古めかしい造りではだめだ。大坂城や聚楽第のような新しい様式で作事するように。また家臣たちの詰め所も整備しておくこと。」

 三原城はどうしても中世の趣が否めず、隆景が不満を持っていたことがうかがえます。隆景が三原へ赴いて以降も工事は続き、さらに橋や道の普請、寺社の移転や整備なども進めさせました。

 かなり細かく指示を出しているあたり、三原を本拠に相応しい地にしようという意気込みが伝わってきます。

 隆景の時代に、三原城は近世城郭としての体裁を整えました。その縄張りは輪郭式といって、本丸・二の丸・三の丸を同心円状に配した構造となっています。また本丸北側には天守台が作られ、肝心の天守こそ築かれなかったものの、江戸城天守台と同規模の巨大さを誇りました。

三原城の縄張り(正保年間に作成された『備後国之内三原城所絵図』より。一部追記。出典:wikipedia)
三原城の縄張り(正保年間に作成された『備後国之内三原城所絵図』より。一部追記。出典:wikipedia)

 さらに海に面して舟入を設けたことで、水軍の基地、あるいは物資搬入の港として活用されたようです。

 満潮時には、まるで海に浮かぶように見えたことから、「浮城」とも呼ばれたとか。ちなみに三原城の石垣は、水面から直接立ち上がっていて、そのままでは波の浸食を受ける可能性があります。そこで高度な技法を用いることで、石垣の崩落や孕みを防いでいるそうです。

 慶長2年(1597)に隆景が亡くなり、三原城は毛利氏の直轄となりました。そして関ヶ原合戦ののち、毛利氏が防長2ヶ国へ転封になると、替わって福島正則が所有しています。正則の嫡男・正之が三原城主となり、さらに城郭の整備を進めていきました。

 現存する天守台を見てみると、石垣の北西隅は古式な積み方となっており、これは小早川時代のものとされています。いっぽう北東側は完成された算木積となっていて、明かに築造時期に差があるのです。

 おそらく隆景が造った天守台は築造途中だったか、あるいは規模が小さかったのでしょう。福島時代に完成もしくは拡大したと考えられています。

 福島正則が改易になったあと、浅野氏が三原城を引き継ぎますが、その時点で城には32の櫓と14の城門がありました。隆景が本格的な整備に着手したのが、1年半という短い期間だったことから、それらの築造工事は福島時代に完成したのでしょう。

 江戸時代、三原は広島藩の支藩扱いとなり、一国一城令の発布後も城は存続しました。また浅野氏の治世下では、石垣の修理などは行われたものの、大きな改変はなかったようです。

なぜ城のど真ん中を鉄道が突っ切ってしまった?

 幕末まで存続した三原城ですが、明治5年(1872)に廃城となり、本丸御殿などわずかな建造物を除いて取り壊されています。さらに明治26年(1893)には、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が城を突っ切るように敷設され、本丸跡には三原駅が設置されました。

 その結果、小学校として使われていた本丸御殿は取り壊され、海側にあった旧城郭の大半が破壊されています。崩された石垣の大部分は、築港や護岸用に転用されたのだとか。

 その後、士族が離散したことで侍屋敷が消滅し、市街地の拡大に伴って城郭遺構の大半が失われました。また埋立地が広がったことで、かつての浮城の面影はすっかりなくなってしまいます。

 昭和50年(1975)に山陽新幹線が開通すると、天守台を跨ぐように高架駅が設置されました。これが駅から徒歩0分で行けるという理由なのですが、まるで石垣が高架を支えているかのような構図は、初めて見ると驚くに違いありません。

三原駅は石垣の縁の上を跨いで建設された(出典:wikipedia)
三原駅は石垣の縁の上を跨いで建設された(出典:wikipedia)
現在の三原城跡(三原駅)周辺地図(出典:<a href="https://www.gsi.go.jp/top.html">国土地理院ウェブサイト</a>)
現在の三原城跡(三原駅)周辺地図(出典:国土地理院ウェブサイト

 そんな三原城ですが、昭和32年(1957)に高山城・新高山城とともに小早川氏城跡として国史跡に指定され、平成20年(2008)には、内堀石垣の復元が行われるなど、城跡の保存が進められています。今後も街づくりの核として、注目されることになるでしょう。

おわりに

 水軍の拠点として、東方の守りの要として整備された三原城ですが、明治以降の相次ぐ破壊によって、往年の姿を察するのは難しいかも知れません。現在は巨大な天守台が、かつての威容をしのばせてくれます。

 三原は海と山が間近に迫り、南北に狭いという土地柄です。鉄道を通したり、市街地を広げるには、どうしても城を破壊するしかなかったのでしょう。

 しかし三原城の遺構は、天守台以外にもたくさんあります。例えば、浮城の面影を残す舟入櫓だったり、本丸中門跡だったり、河川による浸食を防ぐ水刎(みずはね)だったりと、素晴らしい石垣遺構が現存しているのです。駅から徒歩0分の三原城を、ぜひ堪能して頂きたいですね。

補足:三原城の略年表

出来事
天文20年
(1551)
沼田小早川家を継承した小早川隆景が、高山城へ入る。
天文21年
(1552)
隆景、新高山城を築いて本拠を移す。
天文22年
(1553)
八幡原六郎右衛門尉に、三原要害の在番を命じる。
永禄10年
(1567)
隆景によって初期の三原城が築かれる。 
天正5年
(1577)
毛利輝元が、三原城に本営を置く。
天正8年
(1580)
隆景によって三原城の改修が始まる。
天正15年
(1587)
九州攻めに赴く豊臣秀吉が、三原城に宿泊。
文禄4年
(1595)
隆景、養子・小早川秀俊に名島城を譲り、三原を隠居地に定める。
慶長元年
(1596)
本格的な三原城の改修・整備が始まる。
慶長2年
(1597)
隆景が病没。三原城は毛利氏の直轄となる。
慶長6年
(1601)
福島正之が三原城主となる。
元和5年
(1619)
福島氏が改易となり、代わって浅野氏が入封。広島藩の支城として幕末まで存続する。
明治5年
(1872)
廃城となり、本丸御殿を除く建造物が取り壊される。
明治26年
(1893)
城跡に山陽鉄道が敷設され、翌年に三原停車場が完成する。
昭和32年
(1957)
三原城跡が国史跡に指定される。
平成18年
(2006)
日本100名城に選定される。
平成20年
(2008)
内堀石垣の復元・整備が行われる。


【主な参考文献】
  • 光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房 2019年)
  • 中井均『新編 日本の城』(山川出版社 2021年)
  • 南条範夫・奈良本辰也『日本の名城・古城事典』(ティビーエス・ブリタニカ 1989年)
  • 小林祐一『西日本 名城紀行』(メイツ出版 2019年)
  • 楠務『三原の歴史と人物』(中国観光地誌社 1977年)
  • 野田晴雄『47都道府県・城下町百科』(丸善出版 2023年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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