「三浦義村」 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』や『草燃える』にも登場! 三浦半島の主から、鎌倉幕府の粛清担当となった御家人

都から遠く離れた地方の武士出身でありながら、鎌倉幕府の執権と肩を並べ、政治の屋台骨を支える人物がいました。三浦義澄の次男・三浦義村(みうら よしむら)です。

義村は源頼朝に仕えて頭角を現し、幕府を支える人物に成長。危険分子と判断した人間は、たとえ身内であろうと処断していきました。承久の乱では実の弟を自害に追い込み、鎌倉幕府を磐石な体制とします。このとき、義村は一御家人でありながら、北条氏を凌ぐほどの権勢を誇るようになっていました。

義村は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。三浦義村の生涯を見ていきましょう。

三浦一族の一人として幕府に出仕

三浦義澄の次男として誕生

仁安3(1168)年、三浦義村は相模国で三浦義澄の次男として生を受けました。母は伊東祐親の娘です。通称は平六と名乗りました。

三浦氏は相模国の三浦半島を本貫とする武士です。桓武平氏の流れを汲み、坂東八平氏の一つに数えられたほどの名門でした。父・義澄は早くから源氏に従軍。平治の乱でも源義平のもとで戦っています。このため、義村自身も早くから源氏に近い立場で活動していました。

寿永元(1182)年には、頼朝の正室・北条政子の安産を祈願するべく、安房東條庤への使者として派遣されています。さらに元暦元(1184)年には父・義澄と共に源範頼の軍に従軍して平家追討に加わっています。

義村は、頼朝の信任を受けて順調に出世街道を歩みます。文治元(1185)年には、源頼朝の勝長寿院供養に供奉。文治3(1187)年には鶴岡八幡宮の放生会で射手を務めるなど、近い立場にありました。

建久元(1190)年には頼朝上洛にも付き従い、右兵衛尉に任官されるなど、官職も受けています。義村は幕府内だけでなく、朝廷においても一定の足場を築いていました。


幕府の内部闘争で梶原景時らを排除

順調な歩みを見せた義村は、やがて鎌倉幕府の主導的な立場となります。
建久10(1199)年に将軍・頼朝が病没。二代将軍に頼家が就任すると、幕府内において権力争いが勃発します。

頼朝時代には、侍所別当の梶原景時が幕府御家人を統制する立場にありました。しかし景時に対しては御家人たちの不満が噴出。鎌倉幕府は景時や三浦義澄らを含む十三人の合議制によって運営されていたのです。

頼朝の死後、景時は結城朝光の「昔、出家すべきであった」発言を問題視。謀反の証拠として将軍・頼家に讒訴しました。朝光の相談を受けた義村は、景時の排斥に動きます。

和田義盛や安達盛長らとはかり、有力御家人66人による「景時糾弾訴状」を作成して提出。失脚した景時は本領の相模国一ノ宮に退くものの、翌建久11(1200)年正月に一族労等を引き連れて京に出発。途中で偶然に居合わせた在地の御家人たちと合戦となり、最後は自害しています。

義村はさらに危険視した御家人たちを排除していきました。元久2(1205)年、御家人・平賀朝雅が畠山重忠・重保親子の謀反の疑いを讒訴。朝雅は執権・北条時政の女婿でした。

このとき、義村は佐久間太郎らに命じて重保を由比ヶ浜で取り囲ませて殺害させています。加えて重忠討伐軍にも参加し、二俣川での合戦で重忠らを討ち死に追い込みました。

事件後、謀反はでっち上げだと判明。義村は、讒訴の首謀者・稲毛重成や榛谷重朝らを誅殺しています。重忠や重成ら秩父一族は、かつて義村の祖父・義明を討った人物だったため、これは義村の遺恨が絡んでいた可能性もあります。


従兄弟・和田義盛を謀反人として討つ

義村は鎌倉幕府内において、北条義時を支える立場で活動していました。
建暦3(1213)年、義時を排除しようと画策していた泉親衡の謀反が発覚。謀反に連座する形で、侍所別当・和田義盛の子の義直(ほどなく解放)や甥の和田胤長らも関与が疑われて捕縛されました。

和田義盛は、義村にとって従兄弟にあたります。当然、義村ら三浦一族は義盛と合力して胤長らの身柄解放を要求。しかし胤長は首謀者として許されず、陸奥国への流罪が決定します。この一件以来、北条氏と和田氏の関係は悪化の一途を辿ることとなりました。

同年、和田義盛は義村ら三浦一族と合力。多数の御家人らの協力を得て、北条氏討伐の兵を挙げます。しかし義村は和田氏と行動を共にせずに直前で北条義時に挙兵を密告し、将軍御所の警護任務にあたっています。いわば従兄弟を切り捨てた形でした。結果、義時は三代将軍・源実朝の名の下で多数の御家人を糾合。義盛らを打ち破り、和田氏は滅亡しました。

謀反への関与が疑われた時点で、すでに義村は和田氏を見限っていた可能性があります。義村は北条義時に付くことで、三浦氏の安定と自己の地位を守ることが出来ました。鎌倉幕府を守る上で、どちらがより国家のためになるか大局的な視点を持って臨んでいたのです。


将軍を暗殺した公暁を騙し討ちにする

幕府を揺るがす事件でも、義村は解決に奔走しています。

建保7(1219)年、将軍・実朝が甥の公暁によって暗殺されます。公暁は二代将軍・頼家の子であり、将軍職を狙っていたとされており、当時、義村は公暁と近しい関係にありました。義村の正室は公暁の乳母を務め、子・駒若丸(光村)は僧籍において公暁の門弟となっています。

公暁は義村に「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」と決起を促す書状を送付。義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽り、郎党・長尾定景を討手として送り、殺害しています。

事件の真実は闇の中ですが、義村や北条義時の関与が取り沙汰されていました。三代将軍・実朝は後鳥羽上皇と結び、将軍の権威を強めようと運動を展開していたとされます。

実朝による将軍親裁は、合議制や北条得宗家の排斥につながるものでした。先んじて義村と義時は公暁を唆して実朝を暗殺させ、実行犯である公暁を始末したという筋書きの説です。

もしこれが真実だとすれば、源氏将軍の血筋よりも、鎌倉幕府というシステムを重んじた義村と義時の決断だということになります。事件後、謀反の鎮圧により義村は駿河守に任官。幕府内において、さらに重きを成していきます。

承久の乱で弟を自害させる

源氏将軍が途絶えたことで、鎌倉幕府も揺らぎ始めていました。いまだに西日本には朝廷の影響力が強く存在。関東や東北を勢力圏とする鎌倉幕府と二元統治状態となっていました。

承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は諸国に「流鏑馬揃え」の口実で兵を集め始めます。北面の武士や京都大番役の武士らが参集。北条義時追討の院宣(上皇の命令文書)が有力御家人にも発せられました。世にいう承久の乱です。

義村の弟・胤義も京方に味方し、義村に決起を促しました。しかし義村は胤義の使者を追い返し、義時に通報。東海道方面の将の一人として出陣します。

承久の乱は鎌倉方が圧勝によって京都を制圧。後鳥羽上皇も胤義らを討伐する院宣を発出します。胤義らは東寺に立て籠り、義村との一騎打ちを所望。しかし義村は胤義を「痴れ者」として相手をせずに自害に追い込みます。

苦い結末でしたが、義村は承久の乱を鎮圧することに成功しました。戦後処理においても、幕府を代表する立場で行動しています。茂仁王に即位を懇願し、後堀河天皇の即位を実現させました。

北条氏に次ぐ幕府重鎮

伊賀氏の追放に関わる

危険因子を排除してきた義村ですが、やがて北条氏内部に関する揉め事にも関わることとなります。

元仁元(1224)年、執権・北条義時が病没。幕府を主導する執権の地位が空位となりました。このとき、義時の後室・伊賀の方はある陰謀を企てていました。執権に自らの子・政村、将軍に女婿・一条実雅を立てる策です。

義村は政村の烏帽子親を務めており、陰謀に巻き込まれる形で参加しています。しかし北条政子が義村の屋敷に参上し、問いただしています。結果、義村は翻意。伊賀氏一族が追放されることで事態が収拾しました。

これまでの経緯から、義村は早くから政子と組んでいた可能性があります。政子からすれば、伊賀氏を潰すことで北条氏の影響力は保持されました。加えて北条氏の内紛を隠密裡に処理することで、力を温存しています。

この後、三代執権に北条泰時が就任することで、事態は丸く収まりました。

絶大な権勢を誇り、世を去る

義村は鎌倉幕府において、より高みの位置に上ります。嘉禄元(1225)年には、北条政子や大江広元が病没。影響力のある人物たちが次々と世を去っていきました。

同年には執権・北条泰時によって合議制のための評定衆が設置。義村は宿老として主導することとなります。年始における「歳首の椀飯(おうばん)」では、義村の三浦氏は北条氏に次ぐ位置に収まりました。

貞永元(1232)年には、御成敗式目(貞永式目)の制定にも署名。日本初となる武家法に「前駿河守平朝臣義村」の名前を記しています。当然、幕府に重きをなす義村に接近する勢力も現れます。摂関家から四代将軍となった藤原(九条)頼経は、義村と泰村親子に関わるようになりました。

暦仁元(1238)年には、義村は先陣の兵を率いて、頼経上洛のための行列に従っています。上洛の行列に兵を率いて加われたのは、執権・北条泰時と北条時房、義村だけでした。

もはや義村は、執権と並ぶほどの権勢を得ていたと見ることができます。しかしこの上洛の翌延応元(1239)年、義村は病により世を去りました。享年七十二。墓所は三浦の福寿寺にあります。

『吾妻鏡』には死因は大中風(脳血管障害)とありますが、程なく北条時房も病没しています。タイミング的に考えれば、鎌倉幕府内の権力争いの結果と見ることも出来ます。


【参考文献】
  • 樽瀬川 「源頼朝と北条政子だけじゃない!三浦胤義が承久の乱で見せた妻への深い愛情とは?」 和楽Web
  • 高橋秀樹 『三浦一族の研究』 吉川弘文館 2016年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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