「源頼政」 頼朝よりも早く以仁王の挙兵に従った老将! 鵺退治で名刀・獅子王を賜った摂津源氏の総帥
- 2022/03/02
源平の騒乱が始まろうとする平安時代末期、圧倒的権力を握る平清盛や平家一門に対して敢然と立ち向かい、武者たちの先駆けとして挙兵した男がいました。摂津源氏の源頼政(みなもと の よりまさ)です。
頼政は若い頃から朝廷に仕える武士として京で活動。当時の武士としては珍しく、鳥羽院や美福門院からも厚い信任を得ていきました。保元・平治の乱では美福門院の支持する側に味方して勝利し、着々と中央政界での足場を築いていきます。
伝説となった鵺(ぬえ)退治や歌人としての業績により、頼政は当時の摂津源氏を代表する武士となっていました。
しかし平清盛が後白河院を幽閉すると、事態は一変。頼政も反平家の一員として以仁王の挙兵に協力する立場として活動していくのです。
頼政は何を目指して誰と出会い、どう生きたのでしょうか。源頼政の生涯を見ていきましょう。
源氏の名門・摂津源氏の系図に繋がる男
源頼光に繋がる系図
長治元(1104)年、源頼政は摂津源氏・源仲政の長男として生を受けました。生母は藤原友実の娘と伝わります。
摂津源氏は、酒呑童子の退治でも有名な源頼光を祖とする一族です。同氏は畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)近国に地盤を持っていたため、京の中央政界にも足場を築きつつありました。
頼政は大内守護(皇室を警護する近衛兵)を拝命する武士でした。
嵯峨源氏の流れを汲む滝口武者・渡辺氏を郎党にして、朝廷を守るために活動していたようです。
また、武士でありながら和歌にも傾倒しており、優れた歌人として後の世に作品を残しています。職務上、あるいは人的交流からも、頼政は朝廷や摂関家、公家と結びつきを強めていきました。
父の下総下向に同行する
頼政は中央だけでなく地方にも関心を持っていました。
父・仲政が下総守に叙任すると現地に赴任。頼政も父の下総行きに同行しています。
当時の関東は、京の朝廷の目が行き届かない土地でした。
土地を巡った武士同士の小競り合いも頻発し、国衙(国ごと役所)への訴えや武力衝突も問題となっていました。
頼政が関東行きを決めたのは、父・仲政の補佐だけでなく、早い時期から関東においての勢力扶植を狙っていた可能性があります。
すでに河内源氏は、源頼義・源義家(八幡太郎)親子以来、相模国鎌倉を拠点として、坂東(関東)武士の根強い支持を受けていました。
武士団からの支持は、動員する武力にも直結します。当然、頼政ら摂津源氏の地位も安穏ではありません。
頼政の関東下向は、現地に地盤を築くと同時に坂東武士の指示を獲得することにも目的が置かれていたとも考えられます。
鳥羽院に出仕する
頼政が京に帰還すると、順調に出世街道を歩いていきます。父・仲政は保延年間(1135〜1140年)に隠居。頼政は家督を譲られて当主となりました。
保延2(1136)年、頼政は六位蔵人(ろくいのくろうど)に補任。蔵人は、天皇の秘書的役割を果たす蔵人所(くろうどのところ)の職員でした。通常は五位以上が昇殿(清涼殿の殿上間に昇ること)を許可されますが、六位蔵人は特別に許されていました。同年には、頼政は従五位下に正式に叙任。晴れて殿上人(昇殿が許される身分)となっています。
頼政の昇進に関しては、朝廷からの期待も大きかったようです。
当時の頼政は鳥羽院(上皇。のちに法皇)に仕えていました。鳥羽院が寵愛する美福門院(藤原得子)や院近臣・藤原家成からも信頼を受け、出世への足掛かりを築いています。
平清盛と共に保元・平治の乱を戦い抜く
保元の乱
特に頼政が中央政界で活躍したのが武力衝突においてでした。
保元元(1156)年7月、鳥羽院が崩御しました。鳥羽院は重篤の際、美福門院に頼りにすべき武士として頼政の名を挙げていました。
同月には、後白河天皇と崇徳上皇が対立。それぞれ武士たちに呼びかけて、全面戦争の様相を呈していきます。世にいう保元の乱です。頼政は美福門院が支持する後白河天皇方に従軍。後白河天皇方の拠点である高松殿には、平清盛(伊勢平氏。のちに平家)や源義朝(河内源氏)らの姿もありました。
一進一退の攻防が続く中、頼政は上皇方の拠点・白河北殿への突入に新手として参加しています。
程なくして源義朝は崇徳上皇方の住居への放火を献策。実行された結果、上皇方の軍勢は総崩れとなって退きました。
保元の乱において、頼政は勝利を掴み官軍となったのです。
しかし乱の終結は、武士たちにとって苦い結果でもありました。
源氏も平氏も天皇方と上皇方に分かれて戦闘に加わるなど、身内同士が敵味方の立場となっていたのです。
頼政の従兄弟・多田頼憲は崇徳上皇方に付いたために捕縛され、嫡男・盛綱と共に斬首されています。
乱後には、源義朝が上皇方に付いた父・為義や弟らの処刑を命じられて実行していました。
保元の乱では、上皇方に源氏が多数従軍。戦後に処刑されたため、甚大な被害を被り弱体化していきました。
摂津源氏の総帥として
頼政は源氏全体を立て直すために活動を開始しています。
久寿2(1155)年には、源義平(義朝の長男。鎌倉悪源太)に討たれた源義賢の長男・仲家(木曽義仲の兄)を保護。自身の養子としました。保元2(1157)年には、頼政の弟・頼行がみだりに軍兵を動かした罪で流罪となったために自害。頼行の子である源宗頼・源政綱・源兼綱らを養子に迎え入れています。
養子の受け入れは、単純に憐れみや源氏の弱体化を防ぐ目的だけではなく、頼政の巧みな戦略がありました。
頼政は源氏を再編強化することで、自らの手足として動く軍団として育成していく意図もあったものと考えられます。
頼政は摂津源氏であり、源宗頼らも甥に当たりますから同族です。仲家は義朝らの河内源氏出身ですが、義朝らに父を殺されており、いわば河内源氏の反主流派でした。
宗頼や仲家らを養子とすることで、摂津源氏の軍事力は強化・維持されることになります。
加えて保元の乱で弱体化した河内源氏の力を弱めつつ、摂津源氏は相対的に優位に立てることになります。
さらには、養子たちが頼政の手足となって動く将となることで、摂津源氏内部における頼政の発言力も担保されていきます。
平治の乱
頼政は自分の周囲を固めると同時により高みを目指していきました。保元3(1158)年、頼政は院の昇殿を許されました。頼政が後白河院に信頼を得ていたことがわかります。
当時の政局は、三すくみの情勢となっていました。
二条天皇親政派と後白河院政派が対立。さらに院政派の内部は、信西(藤原通憲)派と藤原信頼派に分かれていました。
政治的対立は、やがて新たな騒乱へと結びついていきます。平治元(1159)年12月、藤原信頼は天皇親政派の公卿らと手を結んで挙兵。信西を殺害した上、後白河院を幽閉するという暴挙に出ました。世にいう平治の乱の始まりです。
頼政は美福門院が支持する二条天皇を支援すべく、信頼方に参加。河内源氏の源義朝も同じ動きを取りました。
信頼方は権力を掌握して官軍となりましたが、内部対立が勃発。信頼派と天皇親政派が争うようになります。
当時、京で最大の軍事力を有していたのが平家の平清盛でした。乱時は熊野参詣中で留守でしたが、帰京すると事態は一変します。
天皇親政派は二条天皇を内裏から六波羅の清盛邸に脱出させました。さらには後白河院も仁和寺に逃れています。
二条天皇を保護したことで、清盛は官軍となっていました。
頼政は二条天皇や美福門院に近い立場でした。
二条天皇が六波羅の清盛邸に脱出したことで、頼政も信頼方から離脱。一転して平家に味方することに決しています。
信頼方は六波羅に攻め込みますが敗退。乱を起こした張本人である藤原信頼は処刑されました。
河内源氏の源義朝は、東国に逃げる途中に家臣の裏切りに遭遇。家人の鎌田正清と共に自害しています。
義朝の三男・頼朝は伊豆国への配流が決定。河内源氏は滅亡に等しいほどの凋落ぶりでした。
鵺退治と歌仲間で従三位を射止める
鵺退治で活躍し、朝廷から獅子王を賜る
頼政が最も名をなしたのが『平家物語』における鵺退治です。
伝承によれば、当時の清涼殿には毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡っていました。怪異によってか二条天皇も病を得てしまいます。困り果てた朝臣たちは、源義家の故事に倣い怪物退治を頼政に命じました。
頼政は源頼光から受け継いだ「雷上動(らいしょうどう)」の弓を手に怪物退治に向かいます。
清涼殿を黒煙が覆い始めるや、頼政は弓に矢をつがえて発射。見事に鵺を討ったと伝わります。
鵺は顔が猿、胴体は狸で手足は虎、尻尾は蛇という異形の怪物でした。
頼政が鵺を討つや二条天皇の病状はたちまち回復。功績によって、頼政は朝廷から獅子王の太刀を下賜されたといいます。
歌仲間との交流から従三位を射止める
平治の乱で活躍したことで、頼政は政治的立場を固めていきました。仁安2(1167)年には従四位下に昇叙。嫡男・仲綱らと共に大内守護として朝廷の警護にあたっています。安元3(1177)年には、延暦寺の大衆が院近臣・西光への強訴(強硬な態度での)を決行。頼政は平重盛(清盛の嫡男)らと御所の警備に出動していました。
河内源氏が没落した一方、平治の乱後の頼政ら摂津源氏は中央政界で力を持ちつつありました。
頼政は源氏の長老として期待されると同時に、朝廷や平家から厚い信頼を受けていたことがわかります。
承安元(1171)年、頼政は正四位下に昇叙しています。高位と言っても良い人事ですが、頼政は満足していませんでした。従三位以上は「公卿」と呼ばれる身分となり、国家運営の場に関わることが出来ます。正四位と従三位では天と地ほどの差がありました。頼政は自らや摂津源氏一門の栄養のため、従三位昇叙を目指して活動することを決意します。
かねてから頼政は勅撰和歌集『詩歌和歌集』に59首入首するなど、京を代表する歌人の一人として活躍していました。
平清盛に直接従三位への叙任を頼むことはせず、頼政は官位への不満を歌に託していきました。
頼政は『千載和歌集』の撰者・藤原俊成や女房三十六歌仙の一人・殷富門院大輔ら高名な歌人と交流を持っており、歌を披露する機会は多くあったようです。
『平家物語』には、頼政が「のぼるべき たよりなき身は木の下に 椎(しい)をひろひて世をわたるかな」と詠んだと記されています。
椎は「四位」にかけられており、自分の官位が低いということを嘆いているという歌でした。
清盛は頼政の昇叙を失念していたと伝わります。そのため、歌を聞くとすぐに従三位昇叙を決意しました。
治承2(1178)年、頼政は七十四歳にして従三位に昇叙。晴れて公卿の一員に加わっています。
頼政昇叙について、公卿・九条兼実は日記『玉葉』で頼政の従三位昇叙に対して「第一之珍事也」と冷ややに見ていました。
いわば頼政の従三位昇叙は、通常周囲から予期されてはおらず、破格の扱いであったことがわかります。
清盛としては、従三位昇叙は頼政の働きに報いた面もあったようです。しかし実際は、大きくなりつつあった摂津源氏を昇叙させることに躊躇があったとも考えられます。
頼政は従三位昇叙に満足したのか、翌治承3(1179)年11月に出家。家督を嫡男・仲綱に譲って隠居しています。
以仁王の挙兵で華々しく散る
以仁王の挙兵に加わった原因
頼政が隠居した同月、京には激震が走る事件が起きていました。
平清盛が福原から兵を率いて入京。後白河院を幽閉して院政を停止させるという前代未聞の事態となります。
翌治承4(1180)年2月には、清盛は高倉天皇と娘・徳子(建礼門院)との間に生まれた言仁親王を即位させ、安徳天皇を即位させました。
安徳天皇はまだ三歳と幼く、平家の横暴には周囲から不満が噴出しています。
後白河院の第三皇子・以仁王(高倉宮)は、叔母である八条院暲子(しょうし)内親王の猶子となって皇位継承を目指していました。
安徳天皇の即位によって以仁王は平家打倒を決意。頼政に接近して挙兵の計画を練り始めていきます。
頼政の挙兵計画の参加については、諸説あって判然としません。
一つの説は頼政の嫡男・仲綱に対する平家の仕打ちです。
『平家物語』には仲綱が平宗盛(清盛の嫡男)に名馬・木の下を奪われたと記されています。さらに宗盛は木の下に仲綱という名前をつけて引き回し、侮辱したという話です。
もう一つは、頼綱が大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇・二条天皇に仕えてきた前歴が影響したという説です。
頼綱は保元平治の乱においても美福門院の支持する側に従軍しています。高倉天皇・安徳天皇の即位に対して反発を抱いており、平家に対して挙兵を考えていたとされています。
宇治の平等院で戦う
治承4(1180)年4月、以仁王は諸国の源氏に平家打倒を呼びかける令旨を作成。源行家(頼朝・義経の叔父)を使者として発たせています。しかし5月には平家側に挙兵計画が露見し、以仁王の関与が明るみに出てしまいました。
ただ幸いなことに頼政らの関与は知られていなかったようです。実際に以仁王逮捕に向かう検非違使の一員には、頼政の養子となっていた兼綱が加わっていました。
以仁王は近江国の園城寺に脱出。身柄を匿われています。当時の園城寺は、延暦寺と並ぶほどの寺社勢力でした。数千人の僧兵を抱えており、保有する軍事力は武士団と並ぶほどです。
平家は園城寺攻撃を決定します。しかし攻撃側の陣容には、頼政の名前もありました。いまだに関与が明るみになっておらず、頼政が平家側の信用を得ていたことがわかります。
頼政は自邸を焼くや、仲綱や兼綱ら一族を率いて進発。園城寺で以仁王と合流を果たしています。しかし戦況は芳しくはありませんでした。当初は延暦寺や興福寺などの協力を望んでいましたが、平家の策動によって動きません。加えて園城寺内部にも、親平家の勢力が存在していました。
身の危険を感じた頼政らは、南都(奈良)の興福寺を目指して逃走。しかし途中で以仁王が落馬したため、宇治の平等院で休息を取ることとなりました。
やがて平等院に平家の兵が大挙して押し寄せてきます。
頼政らは宇治橋の橋板を落として渡河を阻みますが、平家軍は宇治川を突破。仲綱ら一族も次々と討死を遂げていきます。
頼政は以仁王を逃すべく、平等院に籠って抵抗。やがて郎党・渡辺唱(となう)に介錯を命じて腹を切って自刃しました。享年七十七。
法名は蓮華寺建法澤山頼圓。墓所は宇治の平等院にあります。『平家物語』によると辞世は
「埋木の 花咲く事もなかりしに 身のなる果は あはれなりける」
と伝わります。
頼政の死後、逃げた以仁王も流れ矢に当たって落命。以仁王の挙兵は失敗に終わっています。しかし全国に持たされた令旨と、頼政らの挙兵は全国に大きな衝撃を与えました。
やがて伊豆で源頼朝が挙兵し、諸国の源氏が立ち上がって平家の時代が終結へと近づいていくことになります。頼政の挙兵時、頼政の末子・広綱らは知行国の伊豆国にいたために生存。頼朝のもとで挙兵に従っていきました。
【参考文献】
- 河内祥輔 『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館 2007年
- 上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の騒乱』 吉川弘文館 2007年
- 関幸彦 『図説 合戦地図で読む原平騒乱』 青春出版社 2004年
- 元木泰雄 『保元・平治の乱を読み直す』 日本放送出版協会 2004年
- 多賀宗隼 『源頼政』 吉川弘文館 1973年
- 古河市観光協会HP 「源頼政」
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