「三浦義明」頼朝に味方した三浦一族の長老

篠田生米
 2022/02/21
三浦義明(『源平盛衰記』、楊洲周延 画)
三浦義明(『源平盛衰記』、楊洲周延 画)

治承4(1180)年8月に挙兵した源頼朝。彼に呼応し、早くからその味方となった武士団の1つに相模国の三浦氏がいます。その三浦氏一族の長老といえる立場にいたのが三浦義明(みうら よしあき)です。彼は頼朝の父・義朝と関係のあった人物で、さらにその先祖も源氏とは深い関係を有していました。

ただ、頼朝の元に集った武士は、源氏との誼で動いていたわけではありません。後に鎌倉幕府内で大きな権力を得た三浦氏ですが、どのような理由で頼朝についたのでしょうか。義明の生涯を通じてその謎に迫ってみましょう。

相模国の武士・三浦氏

三浦一族の嫡男として

三浦氏は相模国三浦郡(現神奈川県横須賀市・三浦市・葉山町)を拠点とし、活動した一族です。三浦氏は古くから源氏(源頼朝の一族である河内源氏)と関係があり、義明の祖父・為継は源義家(頼朝の曾祖父)に従って後三年合戦に参加し、功績を立てています。

義明は為継の子・義継の子として生まれます。成長した義明は嫡男として三浦の地を受け継ぎ、相模国の東側から安房国にかけて勢力を振るいました。天治年間(1124~26)ごろからは相模国内の雑務に携わるようになり、現地で地方官僚的な役割も果たしていたようです。

源氏と三浦氏

源義朝の東国下向

そんな義明もまた河内源氏と深い関係を築くことになります。先の源義家の孫・義朝が、京を離れ東国にやってきたからです。

平安時代末期の当時、全国各地で所領や各種権益をめぐる武士同士のトラブルが頻発していました。現代と違い警察は存在しません。自らの権益を脅かす存在は、実力で排除する必要があります。そのため、武士団同士の対立は長引き、泥沼化しがちでした。

紛争をきちんと解決するためには、より力(武力はもちろん政治的にも)のある存在が調停する必要があったのです。武士たちはそれが可能な存在を求めていました。

上記は三浦氏も例外ではありません。先に述べたように、義明は国内の雑務に関与していたので、自らの管理域内におけるトラブルに対処する必要がありました。そうした中に義朝がやってきたのです。

義朝は三浦氏をはじめとした東国武士たちを上手く統合、彼らを率いて各地のトラブルに積極的に介入し、これを調停していきます。

源氏と東国武士

「源氏と言えば武士の棟梁。その御曹司たる義朝が来たのなら、東国武士がみな彼に従うのは当然!」と思うかもしれませんが、厳密にはちょっと違います。そもそも当時の河内源氏は不祥事続きで政治的に低迷しており、京での評判もイマイチでした。下向してきた義朝も官職すら持っていない有様です。

義明たちは、実力が物を言い、時に血を分けた兄弟ですら容易に敵となる武士社会に生きていました。実体のない権威や、先祖の誼(よしみ)といった曖昧なものに簡単に従うような連中ではありません。

しかし義朝は義明らを従えることに成功します。彼は武士たちを納得させるだけの充分な武力とカリスマ性を有していたのでしょう。三浦氏をはじめ東国武士の多くは、義朝に紛争の調停者としての役割を期待してこれを受け入れます。

義朝は彼らとの関係を強化することで、自前の武力の増強を果たします。義朝の長男である「悪源太(あくげんた)」こと義平の母は、義明の娘とされています。婚姻関係を結ぶほど、義朝と三浦氏は深く結びつくことになりました。

なお、義朝は院や摂関家といった中央の政治権力と提携関係にありました。義朝に従った東国武士の多くは、院や摂関家の荘園管理も行っていたので、彼らと義朝の間には、同じ権力の意向を受けて働いているという共通点がありました。こうした要素も義朝による東国武士の統率に優位に働いたと考えられています。

平氏と三浦氏

保元・平治の乱と義朝の死

保元元(1156)年に勃発した保元の乱に三浦氏は参戦していませんが、続く平治の乱には義朝に従う武士の中に、義明の次男・義澄の名が見えます。義明はこのとき相模国の地方官僚として力を増していたこともあり、三浦氏は義朝の重要な郎等と認識されていたようです。

しかしこの戦いで義朝は死亡、戦いに参加していた息子らも三男の頼朝を除き皆敗死してしまいます。三浦勢はどうにか戦線を離脱し本拠の三浦半島まで逃げ延びました。

平氏政権下の三浦氏

乱では義朝に加担した三浦氏ですが、その後特に処罰を受けた様子はなく、変わらず三浦を拠点に活動を続けていたようです。平氏が政権を掌握していく中で、相模国はその影響が少なかったことも要因です。

とはいえ全く影響がなかったわけではなさそうです。相模国内では親平氏方の大庭景親が勢力を増していきました。三浦氏はそれに押され、国内での立場が徐々に悪化していったと考えられています。

なお、相模の隣国・武蔵国などは平氏関係者との関係が深かったため、畠山重忠など当国の武士の多くは平家と強く結びつきました。義朝存命時もそうでしたが、武士の去就は中央の情勢や政治権力との結びつきが大きく関係しています。そしてそれらは武士たちの居住地での立場にも強く影響を及ぼしたのです。

源頼朝の挙兵

頼朝へ味方する三浦一族

治承4(1180)年8月、平治の乱の敗北後、伊豆で流人となっていた源頼朝が兵を挙げます。義明は頼朝に味方することを決め、彼と合流すべく一族を率いて本拠を出立します。

頼朝との合流を目指して進軍する三浦勢でしたが、大雨による河川の増水に阻まれ立往生してしまいます。その間に頼朝は平家方の大庭景親の軍勢と戦闘になります(石橋山の戦い)。奮戦する頼朝勢でしたが多勢に無勢、合戦に敗北し頼朝は行方不明になってしまいます。なお、この戦いでは一族の佐奈田義忠(義明の甥)が頼朝方として参戦し、奮戦の末討死したとされています。

頼朝行方不明の報を聞き撤退する三浦勢でしたが、その途中、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇します。戦闘は避けられず、双方に死者の出る事態にまで発展してしまいます。重忠の母は三浦義明の娘とされ、義明にとっては孫にあたります。『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』では、遭遇当初、お互い見知った仲ということで和平が成りかかるものの、三浦氏側の手違いで戦闘に発展してしまったとされています。

どうして頼朝方に?

代々河内源氏と関係深い三浦氏ですが、そうした誼のみで頼朝に味方したわけではなさそうです。先述した通り、親平家方の武士のせいで、三浦氏は国内での立場が悪化していました。立場的に平家に義理立てする筋合いもありません。頼朝についたのも「平家方の抑圧に耐え続けるくらいなら、頼朝についた方が先があるかも…」といった打算的な理由だったのかもしれません。

当時義明は90、あるいは80歳近い高齢でした。家督はすでに嫡男の義澄に譲っていましたが、長老として一族に対して大きな影響力を持っていたと考えられます。当時の武士は独立志向が強く、兄弟でも全く別の生活を送っていました。兄弟間の敵対もよくあることで、同じ一族が敵味方に分かれて戦うことも珍しくありません。

そんな武士社会でしたが、義明は一族を上手くまとめて対立を防いだのでしょう。多くの三浦一族が頼朝方となった背景には、長老の義明が健在だったという要因も十分に考えられます。

一族のために命を散らす

由比ヶ浜での戦闘後、どうにか郷里まで帰り着いた三浦勢でしたが、先の畠山重忠が軍勢を引き連れて三浦氏の本拠である衣笠城に攻めて寄せてきました。三浦勢は城に籠り必死に防戦しますが、連日の戦闘による疲弊もありもう限界です。ついに城の放棄が決定されます。

ここで長老の義明はある決断をします。城からの脱出を促す一族の手を払い、城に残ると言い放ちます。「わし独りで城に残り、大軍がいるように見せかけて、迫る軍勢を迎え撃ってやろう!」残り少ない命を頼朝と三浦一族の繁栄に捧げることにしたのです。一族は涙を流して悩みましたが、義明の命令通り彼1人を残して城を脱出していきました。

上記は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にある義明の最後で、頼朝への忠義を示すドラマチックな描かれ方をしています。一方、延慶本『平家物語』では全く違った最後が描かれています。三浦勢が城を脱出する際、老齢で足手まといとなった義明を置き去りにし、義明は哀れな死を遂げたというものです。

いずれにせよ義明はここで命を落とします。享年は89歳、あるいは79歳でした。

城から無事脱出した三浦勢は、その後頼朝との合流に成功します。その後勢いを取り戻した頼朝軍は、5年後の元暦2(1185)年に平家追討を果たしたことは知っての通りです。一連の戦いで三浦一族は大いに活躍し、鎌倉幕府においても大きな権力を持ちました。

嫡男の義澄と孫の和田義盛は、頼朝死後に置かれた御家人13人の合議制のメンバーにも選ばれています。三浦一族の発展は、一族を頼朝方につかせた義明の存在があってこそと言っても過言ではないでしょう。


【主な参考文献】
  • 高橋秀樹『三浦一族の中世』(吉川弘文館、2015年)
  • 野口実『坂東武士団と鎌倉』(戎光祥出版、2013年)
  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーラン ...

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