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  • 豊臣秀吉
 2015/08/10

「仙北一揆」出羽国で勃発!豊臣政権の太閤検地に反発。
──天正18年(1590年)

仙北検地

豊臣秀吉天正18年(1590年)に全国統一を果たすが、このときに問題になったのは配下の領地問題だった。家臣の中には以前より秀吉に仕えていた者もあれば、新しく配下になった者もいた。以前からの家臣たちの領地に対しては朱印状を与えて所領を安堵するも、新しく家臣になった者たちの領地はいったん秀吉のものにして(これを太閤蔵入地という)、改めて恩給するという形をとった。このときに正確に領地を知るために検地をする必要があった。そこで全国的に太閤検地を実施したのだが、奥羽地方も太閤検地の例外ではなかった。これを仙北検地ともいう。
仙北一揆は同年9月にこの仙北検地への反対をきっかけに奥羽地方(現在の秋田県にあたる)で起こった一揆である。

秀吉は同年の8月10日に奥羽全域の検地を命令しているが、それに先立つ7月上旬ころに事前に上杉景勝に対しては、家臣の大谷吉継を軍監として派遣して検地を命じていた。8月中旬以降に着手がなされていて、上杉景勝とその重臣の色部長真が大谷吉継と一緒に庄内地方の仕置をして、同月17日には大谷吉継は横手城、上杉景勝は大森城に入っていたことが史料で確認できる。検地は9月下旬ころには一通り終了し、景勝が越後に帰ろうとしていたとき、仙北地方と由利地方を中心に一揆が起こったのである。

仙北一揆の内容

仙北一揆の乱の要所マップ

9月に仙北地方と由利地方の百姓らが検地反対のために立ち上がったのだが、これは検地が実施されることで土地の支配権や年貢徴収権が失われるのではないかという疑念や、隠田と焼畑の摘発に伴う課税化に対する反感などが挙げられる。いずれにせよ仙北検地に反対する勢力は次第にその数を拡大させていった。この一揆では、増田(横手市増田町)・山田(湯沢市山田)・川連(湯沢市川連町)の古城に立て籠もった総勢2万4千人以上もの人々が反対運動に参加したことがわかっている。

自領でこのような一揆騒動が起こったことを知った上杉景勝は、ただちに軍勢を各地に派遣して鎮圧を試みたものの、一揆勢もまたこれに徹底防戦した。しかしながら、上杉軍は2000人の軍勢を秘密裏に進軍させて一気呵成に攻撃を仕掛けて、一揆勢を徹底的に打ち破って敗走させる。これで一揆は鎮圧できたと思っていたら、10月に仙北郡美郷町六郷において大谷吉継指導の下行われた検地に対して百姓が訴訟運動を展開して、検地を妨害するという事件が起きた。大谷配下の者たちは反対者3名を斬殺して、5名を捕縛するという暴挙に出た。これに怒った農民が大谷吉継の家臣を50人以上殺害し、これをきっかけに一揆が再燃。だた、まもなくして上杉軍と各旗本軍の総勢1万2千人が出動して各所を撃破し、同月中にこれを鎮圧することに成功している。

その後の影響など

一揆はすぐに鎮圧されたが、上杉側にとっても一揆側にとっても双方に大きな被害が出るほどの激しい戦いだった。一揆側は約1600人が討ち取られ、上杉側も約200人が討ち取られ、負傷兵は約500人にものぼったとされている。

また、仙北一揆の平定後に上杉軍は撤退したが、色部長真は大森城に駐留することになって仙北地方は厳しい統制下が置かれることになる。この地域の領主だった小野寺氏は上浦郡約48000石のうち約16000石が最上義光に与えられるなど、不公平な裁定もあった。さらに、仙北一揆の鎮圧と仙北検地の成功によって秀吉の家臣である大谷吉継は越前国府中12万石の一部が拝領された。上杉景勝もまた仙北一揆の鎮圧とそれ以前の小田原参陣の功績によって出羽庄内地方を加増してもらい、仙北地方の支配を強めることになった。

仙北一揆は奥羽地方の中央部のほぼ全域に波及した大規模なものだったが、その中でも葛西大崎一揆は反乱の規模が大きかった。領主の木村吉清とその息子木村清久は、そこまで反乱を波及させてしまった責任を秀吉から問われて、厳しい処罰を受けている(減封処分)。仙北一揆の鎮圧は単なる一揆の鎮圧ではなく、豊臣秀吉の全国統一を名目的だけでなく、実質的にも推し進める結果になった。




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