「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末
- 2022/06/16
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
戦国の世でのさまざまな出来事はやがて伝説となり、現代のわたしたちにもよく知られる故事として伝わっているものが数多くあります。なかには慣用句やことわざのように使われる言葉もありますが、現代社会のビジネスシーンでも「小田原評定(おだわらひょうじょう)」というものをよく耳にしないでしょうか。これは会議が長引くばかりでまったく結論が出ないことを表すものですが、その語源は神奈川県の「小田原」にあります。
小田原はいわずとしれた「後北条氏(小田原北条氏)」の本拠地であり、下剋上によって戦国に覇を唱えた「北条早雲」以来、五代にわたって勢力を誇ってきた関東の一大武門そのものを示す地名でもあります。
そんな後北条氏は、秀吉の天下統一事業の最終段階に立ちふさがった勢力でした。この小田原攻略をもって天下統一の成立と解釈することも多く、戦国時代の大きな画期のひとつとして認識されています。
「小田原評定」とはまさしく、そんな秀吉による「小田原征伐(おだわらせいばつ)」によって生まれた言葉です。今回は有名な慣用句の元となった、天正18年(1590)の小田原征伐の流れを概観してみましょう!
小田原はいわずとしれた「後北条氏(小田原北条氏)」の本拠地であり、下剋上によって戦国に覇を唱えた「北条早雲」以来、五代にわたって勢力を誇ってきた関東の一大武門そのものを示す地名でもあります。
そんな後北条氏は、秀吉の天下統一事業の最終段階に立ちふさがった勢力でした。この小田原攻略をもって天下統一の成立と解釈することも多く、戦国時代の大きな画期のひとつとして認識されています。
「小田原評定」とはまさしく、そんな秀吉による「小田原征伐(おだわらせいばつ)」によって生まれた言葉です。今回は有名な慣用句の元となった、天正18年(1590)の小田原征伐の流れを概観してみましょう!
※本コラムでは小田原の北条氏を便宜上「後北条氏」と呼称し、人物名には「北条」を使用しています。
合戦の背景
秀吉に臣従しなかった後北条氏
秀吉は天正13年(1585)の関白任官、翌年の「豊臣」賜姓に太政大臣就任、そして天正15年(1587)の九州平定と目まぐるしく権益を掌中におさめてきました。すでに関東以西全域を事実上の統治下に置き、残るは小田原の後北条氏を中心とする関東・東北の勢力のみとなりました。関白としての秀吉は名目上、朝廷権威を背景とした号令権限を有したとされ、天正14年(1586)に聚楽第への後陽成天皇行幸を実現させた際には諸国大名に列席命令を発布しています。小田原の北条氏政・氏直親子にもこの命令が通達されましたが、この時には上洛命令に従いませんでした。
のちに後北条氏と姻戚関係にあった徳川家康の仲介により、氏直の叔父「北条氏規」が上洛して領地紛争の調停と引き換えに氏政か氏直が改めて上洛するという約束を取り付けます。しかしこの領地紛争の裁定をめぐる動きが火種となり、大規模な小田原侵攻を招く結果となったのです。
開戦の口実となった事件
後北条氏がこの時に対峙していたのは、上州(現在の群馬県あたり)の「真田昌幸」でした。豊臣氏に臣従していた昌幸は沼田城(現在の群馬県沼田市)を拠点としており、上州領有を企図していた後北条氏と紛争状態にありました。天正17年(1589)、秀吉はこの問題の裁定に立ち、真田昌幸には真田伝来の地である名胡桃城(現在の群馬県利根郡)と沼田領の3分の1を、後北条氏には沼田城およびその領の3分の2を割くことを定めました。
「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』 2014 西東社
- 小和田 哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』 2006 吉川弘文館
- 『【決定版】図説・戦国合戦集』 2001 学習研究社
- 『歴史群像シリーズ 51 戦国合戦大全 下巻 天下一統と三英傑の偉業』 1997 学習研究社
- 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』1996 学習研究社
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