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「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗

帯刀コロク
 2015/07/27

秀吉が天下を統一する過程で多くの有力大名と戦ったのは周知のとおりですが、なかには恭順して豊臣傘下へと入る選択をした勢力もありました。その統一事業の最終段階で焦点となったのが関東・東北地方であり、当地の大名たちは難しい政治判断に直面せざるをえない時期を迎えていました。

当時の東北地方は「陸奥國」と「出羽国」を合わせて「奥羽(おうう)」といい、統一に際する秀吉によるこの地域の領土処置を「奥羽仕置」、あるいは「奥州仕置」と呼んでいます。

今回はそんな、天正18(1590)年に行われた奥州仕置の概要についてみてみることにしましょう。

奥州仕置の背景

少し前置きが長くなりますが、奥州仕置へと至る経緯として小田原攻めやその戦後措置等々、関連する事象についてもあわせて概観することにします。

奥羽への恭順勧告、再三の使者派遣

天下に覇を唱えるに至り、秀吉が行ったのは武力制圧だけではありませんでした。 「惣無事令」という概念が提唱されているとおり、大名間での紛争を禁じた和平命令を発布しています。

九州地方に向けては天正13(1585)年10月段階で、関東及び奥羽地方には天正15(1587)年12月段階で発令されたと考えられており、これに反発した場合は治安維持の名目で派兵するというパターンがみてとれます。

秀吉は諸大名に自身の勢力下への参入も勧告しており、奥羽には天正13~16(1585~88)年にわたり、3度も使者を派遣しています。そのなかで恭順の意思を示したのが、出羽の「最上義光(もがみよしあき)」と出羽・陸奥の「伊達政宗」でした。

義光は政宗にとって伯父にあたる人物で、これら東北の一大勢力が秀吉に与するという前提は、統治の平定に大きなアドバンテージが確約されたと同義のことでした。

秀吉から天正17(1589)年前半までの上洛命令を受けた政宗でしたが、同年5月に会津蘆名氏領へと侵攻。上洛命令の無視および東北地方の治安維持を自ら破ったとして、秀吉は政宗軍が会津駐留を続けた場合は征討軍を派遣する姿勢を示します。

しかし同年11月、秀吉が仲裁した後北条氏(北条氏)と上杉氏あるいは真田氏との領土問題について、裁定結果を覆す軍事行動を後北条氏が断行。このことにより、いわゆる惣無事令違反を名分とした小田原攻めが実行されることになったのです。

小田原攻めにより、東北が射程内に

秀吉にとって最後にして最大の敵対勢力ともいえる後北条氏は、有力大名連合軍の攻撃を受け天正18(1590)年7月に小田原城を開城。ここに滅亡します。 小田原戦役の詳細は割愛しますが、攻略にあたって秀吉は各地の大名に参陣命令を発し、いわば自身に恭順する意思の有無をふるいにかけたともいえます。

東北各地からも参陣命令に応召した有力領主層がありましたが、政宗が遅れて着陣し後に減封のうえ許されたことは有名です。 奥州仕置とはこのように、関東・後北条氏の脅威が排除された状態からの東北経営についての処断を指しています。

奥州仕置の経過・結果

経過と行軍過程

小田原攻めでは北関東の長きにわたる内紛裁定も視野に入れており、常陸国の「佐竹義宣」、下野国の「宇都宮国綱」らも秀吉陣営として参戦しました。

小田原開城後、秀吉は同年7月26日に下野国・宇都宮城に入城。ここに関東および奥羽の諸大名が参着し戦後の関東・奥羽各地の領土配分処置を行ったため、これを「宇都宮仕置」と呼んでいます。

これは源頼朝が奥州合戦に赴く際、宇都宮大明神に奉幣した故事を踏まえたものとされ、天下に号令する将としての演出も考慮されたものと考えられます。

秀吉の軍勢は奥州仕置の巡察を目的とした行軍を実施し、伊達政宗の先導で会津の新領主となった蒲生氏郷、そしてのちの五奉行「浅野長政」が筆頭格として実務にあたりました。

秀吉自身は途中で巡察を仕置軍に委ねて宇都宮に帰還しましたが、長政らは同年8月6日には奥州白河(現在の福島県白河市に比定)に至ります。

途中、陸奥国中部の有力国人領主であった「葛西氏」の家臣らの抗戦を受けますがこれを撃退、8月9日には会津の黒川城(会津若松城)に入城しました。

のち、稗貫郡(現在の岩手県花巻市)の有力豪族であった「稗貫氏」は小田原参陣命令に従わなかったため没落し、現在の岩手県花巻市花城町に所在した拠点の鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)に浅野長政が入城。ここを基地として東北諸将への号令を行いました。

奥州仕置軍は最終的に現在の岩手県平泉のあたりまで進駐、和賀群(現在の岩手県北上市)を中心とした国人領主「和賀氏」らの諸城を攻略。

浅野家家臣らが代官として駐留して検地などの秀吉統治策を実行、奥州仕置軍はおよそ同年9月末までには随時撤収し、ここに天下統一が一応の実現をみたものとされています。

奥州仕置の要所マップ

領土措置について

奥州仕置の本質は、秀吉の傘下とした諸勢力への領土再分配に大きな比重があったともいえます。

特に小田原参陣命令への対応はその試金石ともなり、端的にいえば早く臣従した者には旧来の領地安堵、そうでなかったものは滅亡・減封・改易といった厳しい処断が下されました。

また、召し上げられた領地は戦功のあった大名に新たに与えられるなど、東北の統治体制が大きく変わった部分もありました。 奥州仕置のポイントは、すべての土地は一旦秀吉の直轄地とし、改めて諸将が恩給として拝領するといった体裁がとられた点にあります。

名実ともに秀吉を頂点とする支配体制に組み込まれるということになり、その待遇ははっきりと明暗がわかれたといえるでしょう。

小田原参陣命令に応じなかった諸勢力は軒並み改易。領地を没収され滅亡するか、他の有力大名の配下になったり庇護を受けたりするというその後を歩みます。

旧来の所領を安堵または実質的に維持されたのは、いち早く秀吉への臣従などを表明した「最上氏」「相馬氏」「津軽氏」「南部氏」「秋田氏」「戸沢氏」らの諸将が挙げられます。

上洛命令無視や小田原遅参などを咎められた伊達政宗は助命はされたものの減封、翌年行われた再仕置では「葛西大崎一揆」の責任を問われさらに減転封されています。

同様に、当初は旧領を安堵された小野寺氏も領内で勃発した「仙北一揆」の責任から減封措置を受けています。

会津には「蒲生氏郷」、葛西大崎には「木村吉清」がそれぞれ新封されましたが、吉清の領地では東北最大規模ともいわれる葛西大崎一揆が勃発。その責任を問われ改易処分となりました。

このように、領土問題の裁定だけでは決着しない領民の激しい反発を生じさせながら、武力による一揆鎮圧を経て天下統一が成し遂げられていくのでした。

奥州仕置のその後

先述のとおり奥州仕置の結果として多くの一揆が勃発し、沈静化にはなお時間が必要でした。

天正19(1591)年には豊臣秀次を総大将とする「再仕置」とも呼ばれる、軍事行動を伴う措置が講じられています。

太閤検地により、税収などの既得権益が大きく損なわれることに反発した国人領主層が中心となったともいわれていますが、いずれも強硬な武力制圧を実施しています。

秀吉の天下とは、東北地方の「民」との戦闘によってようやくの決着をみたとも言い換えられるでしょう。

まとめ

奥州仕置あるいは再仕置による東北平定により、秀吉は名実ともに「天下人」となりました。 しかし間を置くことなく「唐入り」決行が布告され、「文禄・慶長の役」へと至るのは周知の通りです。

一面では国内の平和を一度実現させたとも評される秀吉ですが、完全な戦国乱世の終焉までにはなお時が必要でした。


【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 「豊臣政権の関東・奥羽仕置 続論」『九州文化史研究所紀要 58』 中野等 2015 九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門
  • 「奥州仕置と東北の大名たち」『白い国の詩 569』 長谷川成一 2004 東北電力株式会社広報・地域交流部
  • 『新編弘前市史 通史編2(近世1)』 青森県弘前市 2002 六一書房(ADEAC版
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
  • サライjp 無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】牡鹿半島

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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