“人間無骨”の槍遣い!織田の勇将「森長可」の家紋とは?

 戦国時代、武士を象徴する兵装の筆頭格として「槍」がありました。多くの槍の達者がおり、「一番槍」「槍働き」などこの武器の名に因む慣用句が生まれています。さらには武将のペルソナを体現するかのような「号」をもつ槍が勇名を馳せ、本多忠勝の「蜻蛉切(とんぼきり)」や福島正則の「日本号」、結城秀康の「御手杵(おてぎね)」などがよく知られています。

 もう一人、有名な槍とその遣い手を挙げるとすれば、「人間無骨(にんげんむこつ)」を振るった織田の勇将「森長可(もりながよし)」が想起されます。長可は信長の小姓として有名な森蘭丸(成利)の実兄で、受領名である武蔵守(むさしのかみ)から「鬼武蔵」の異名をとった武人でした。

 残された甲冑から小柄な体格だったと想定される長可ですがその気性は激しく、戦では度々命令に背くこともあったと伝わっています。しかし主君の信長からは口頭または書面での注意のみで厳罰に処された形跡がなく、極めて愛された荒武者だったと考えられています。一方では茶の湯や書にも造詣が深く、文化的教養にもすぐれた人物でした。

 今回はそんな森長可の家紋についてみてみることにしましょう。

「森長可」の出自とは

 森長可は永禄元年(1558)、美濃国(現在の岐阜県あたり)金山城主・森可成(もりよしなり)の次男として生を受けました。父の可成ははじめ美濃国守護の土岐氏に仕え、後に織田信長の配下となった武将でした。

 長可は父の戦死に伴い数え年わずか13歳で森家の家督を継ぎ、元亀4年(1573)の第二次長島一向一揆の鎮圧戦で初陣しました。若年から戦場に身を置いた長可は天正12年(1584)までの間、各地を転戦し、武功を上げ続けました。

 しかし同年の小牧・長久手の戦いでは膠着状態を打破するため、義父の池田恒興とともに敵方の徳川家康の背後をつこうとしたところを察知されて、討ち死にしました。長可はこのとき第2陣の総大将として参戦しており、甲冑の上には死装束を意味する白衣を羽織って決意を示したといいます。享年27歳でした。

森長可の紋について

 長可が用いた家紋は森氏の定紋である「森鶴の丸」です。文字通り鶴を図案化したものですが、森氏のそれは他の鶴紋に比べて描写が細かい点に特徴があるとされています。

家紋「森鶴の丸」
家紋「森鶴の丸」

 翼を広げた鶴の模様を円形に配し、向かって左に首を向けた図案となっています。長可も父の可成も甲冑や陣羽織にこの紋をあしらいましたが、いずれも左右で首が向き合うように配置され、しかも右向きの鶴だけは口を開けていることから本来は一対のものであった可能性も指摘されています。

 その説を裏付けるかのように森氏の替え紋は二羽の鶴が向き合った「対い鶴(ついづる)」であり、鶴という意匠へのこだわりを感じさせます。

家紋「対い鶴」
家紋「対い鶴」

なぜ「鶴」なのかについての考察

 鶴は瑞鳥として様々な意匠に用いられ、また現代では考えにくいですが、格の高い食肉としても珍重されていました。武将の贈り物にしばしば鶴が選ばれたのもそのためです。家紋としても使用されてきましたが、森氏にとっては単なる縁起物というだけの意味ではなさそうな由来も挙げられます。

 森氏は一向宗、つまり今でいう浄土真宗に帰依しており、開祖・親鸞の生家である日野氏の紋が「鶴の丸」であったことと関連する可能性が指摘されています。実際に一向宗で鶴紋が尊重されたかどうかは分かりませんが、あるいは信仰に関わる紋としての位置付けも興味深い仮説です。

 また、替え紋の対い鶴は片側が開口していることを先に述べましたが、これは二羽の鶴が向かい合う「阿吽」であることを示したものといえるでしょう。仁王像や狛犬など一対のものはこうした阿吽の姿をしていることがあり、非常に広範な意味がありますが端的には「二つで一つ」というペアの力を表わしています。特に一対となった鶴はしばしば夫婦を意味する記号でもあり、夫婦円満、引いては子孫繁栄を願う吉祥紋でもあったのです。

 余談ではありますが長可は遺言状ともいえる妻に宛てた書状で、「~候(そうろう)」といった正式で非常に丁寧な文体を用いています。長可の妻は池田恒興の娘であることから池田氏への敬意と配慮を込めたとしても、対等以上の相手に送るような丁重な文面からは猛将とはまた違った長可の人柄がにじみ出るかのようです。

 うがった見方をするならば妻への愛情の裏返しとも考えられそうで、そうすると必ず向かい合わせに配されたという「鶴」の意味も異なってくるかもしれませんね。

おわりに

 猛将のイメージが付きまとう「鬼武蔵」の森長可ですが、その実細やかで愛情深い面を秘めた人物であったように思われます。それでも武人としての印象はやはり強く、彼の代名詞である槍の人間無骨は、名工・二代目和泉守兼定の作として広く知られています。

 長可は初陣の時からこの槍を振るって戦場を駆けたとされ、現在にまで伝えられています。


【主な参考文献】
  • 監修:小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)
  • 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』(学研、2009年)
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版)(講談社)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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