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  • 織田信長
 2019/08/08

「森長可」蘭丸の兄。鬼と恐れられた一方、家族愛に深いところにギャップ萌え!?

森長可の肖像画

織田信長の息子・信忠の下で奮闘し、時には残虐とも見える行為で敵軍の心胆を寒からしめた剛の者・森長可(もりながよし)。

「鬼武蔵」との二つ名を持つ長可は何を思って苛烈な戦いぶりを続けたのでしょうか。その心の奥を垣間見るとき、長可の武将としての奥深さに魅了されること必至です!
(文=玉織)

わずか13歳で家督を相続

森長可は永禄元(1558)年織田信長の家臣・森可成(もりよしなり)の次男として誕生しました。

可成には長可を含めて6人の息子がいましたが、長男の森可隆(もりよしたか)は元亀元(1570)年4月に越前の手筒山攻めで19歳で惜しくも戦死、可隆自身も同年の9月に宇佐山城の戦いで命を落とします。

森氏の略系図

残された可成の息子は、13歳の長可を筆頭に、蘭丸、坊丸、力丸、そして仙千代とまだまだ年少の者ばかり。しかし、当主・嫡男を失った以上、跡を継ぐのは次男の役目です。

年若くして家督を相続することになった長可ですが、信長は長可を父・可成が遺した兼山城主に命じるとともに、東美濃衆の統率者としての地位も約束します。

いくら戦国時代と言っても、13歳で城持ちというのは織田家臣の中でも破格の扱いです。長可も時には周囲からの雑音に不快な思いをしたこともあったのでは。

それでも長可は、「舐められてたまるものか」とばかりに自身の武功で周囲を黙らせていきます。

信忠軍団の配下で戦陣を駆け抜ける!

天正元(1573)年、信長の第二次長島一向一揆攻めで初陣を飾った長可は、持ち前の勇猛さで稲葉良道、関成政らと敵陣に突入攻撃を仕掛けます。続く天正2(1574)年の第3次長島一向一揆攻めでは川を隔てて対峙した一揆衆のなかに先頭きって突入し、愛用の十文字槍をふるって大暴れしています。

ちなみに、この十文字槍には「人間無骨」という文字が彫られていました。人間無骨は「人の骨など無いに同然」といわれるほどの切れ味を持った槍であったと言われています。長可は文字通りこの槍で多くの兵の骨を断ち、累々と屍の山を築いていきました。

その後も天正3(1575)年長篠の戦い同5(1577)年の雑賀攻め、同6(1578)年石山本願寺攻め、播磨攻め、摂津伊丹攻め、信貴山城攻めなど、長可は数々の戦に参戦し、武功を挙げていきます。

天正10(1582)年2月~3月にかけての武田討伐戦では、信忠率いる織田軍の先鋒として出陣。長可は次々と城を落とし、敵を蹴散らしていきました。

あまりの快進撃に信長は「実は罠なのでは?」と警戒したほどです。信長は信忠の補佐役にこんな手紙を送って注意を促しました。

「城介(信忠)事若く候て、この時一人粉骨をも尽くし、名を取るべしと思う気色相い見え候間、毎々卒爾(軽率)の儀これあるべく候」(建勲神社文書)

信長は、若さに任せて信忠や長可が無茶をすることを警戒していたのでしょう。信忠も血気盛んな武将であったようですが、その部下の長可は主人以上のやんちゃ侍。

信長の心配をよそに、信忠軍はその後も快進撃を続け、武田氏の最後の要害・高遠城をわずか一日で落城させると、ついに武田氏を滅亡に追い込みました。

この戦での働きを認められた長可は、武蔵守に任じられるとともに、信濃国内、高井・水内・更科・埴科郡4郡の一職支配権を獲得。居城であった兼山城から川中島海津城へと移ることに。

ちなみに、兼山城と元々の長可の所領は弟である森蘭丸へ下されました。

武田滅亡後の武田旧領の支配権
武田滅亡後の武田旧領の支配権(1582年)

長可は海津城へ移ると、早速、新領地の統治に取り掛かりますが、元は敵地であった土地のこと、一筋縄ではいきません。そこで長可は、武田の遺臣の子どもたちを集めて人質として海津城に住まわせ、その城主に臣従を誓わせたのです。

荒っぽいやり方ではありましたが、ひとまずは新領地の掌握を終えた長可。しかし、まもなく長可に一報の知らせがもたらされました。主君信長の死去の知らせです。

本能寺の変後、四面楚歌から決死の脱出

同年の6月、本能寺の変で織田信長が死亡。信長のそば近く仕えていた長可の3人の弟・蘭丸、坊丸、力丸もこのとき主とともに死亡しています。さらに、信長より天下を継承した信忠も明智光秀との戦さなかに討たれてしまいました。

これによって天下不在となった今、各地の情勢は非常に不安定なものとなりました。

当然、長可の所領も例外ではありません。信長死去の報を聞くや、掌握したばかりの信濃衆が手のひらを返したように長可に牙を向き始めたのです。

昨日までの隣人は、今日の敵。主君や弟の死を悲しんでいる間はありません。長可は居城の海津城を捨てて、森家の本拠地・兼山へと撤退を開始します。

しかし、ただ引くだけでは済まさないのが猛将・長可。この脱出劇のさなか、木曽義昌が福島城で長可を待ち伏せしているとの情報を得た長可は、一足早く城に押し入り、木曾義昌の息子たちを捉えて人質にとりました。

長可が人質を盾に逃亡を続けたため、義昌は周囲の諸将に「長可には手を出さないように」と懇願。長可を討つつもりが、逆に長可の撤退を手助けすることになってしまったのでした。

なんとか6月24日に無事に兼山城へ帰還した長可の一行ですが、長可はその翌日にわずか6名の手勢で岐阜城で人質となっていた末の弟・仙千代を奪い返します。

旧領地である兼山で体制を立て直したいところですが、兼山の周囲もいつの間にか敵だらけになっていました。そこで長可は、周辺の不穏分子を一つ一つ潰していき、再び領地を整えていったのでした。

長可が「鬼武蔵」と呼ばれた所以は?

ところで、長可には「鬼武蔵」との異名があることをご存知でしょうか。

戦国時代には、勇猛果敢な武将を尊敬や畏怖を込めて「鬼」と呼ぶこともありました。長可もたった一人で何百、何千の首級を挙げるような苛烈な戦いに身を投じてきたことから、「鬼」と呼ばれるようになったようです。

侍のイラスト

長可が「鬼長可」ではなく「鬼武蔵」と受領名で呼ばれるようになったのにも、実は理由がありました。

天正5(1577)年、長可は雑賀攻めがひと段落して京に帰洛した信長の元を訪れました。長可が軍装を整えて入洛しようとした時のこと、関所を守っていた関守が長可を呼び止め、下馬して名を名乗るように命じたのです。

これに反発した長可は、馬上で名を名乗り、そのまま押し通ろうとしましたが、関守は許しません。長可は腹に据えかねたのか、関所を強行突破。関守を切り捨てて関所破りを行ったのでした。

これを聞いた信長は長可を処分するどころか、「昔、京の五条大橋で人を討った武蔵坊弁慶という男がいたが、長可もこれより武蔵と名を改めよ」と武蔵に改名させたのです。

実際に武蔵守に任じられるのはこれよりも後年のことになりますが、こうした横紙破りも「鬼武蔵」の名を広く伝聞する材料になったのでしょう。

鬼武蔵の最期

清須会議の後、信長の実質的な後継者の地位を手にした羽柴秀吉。しかし、信長の遺児・織田信雄は次第に秀吉に不満を抱くようになり、徳川家康と手を組んで兵を挙げました。

小牧・長久手の戦で散る!

舅である池田恒興とともに秀吉側について参戦した長可は天正12(1584)年3月13日、まずは犬山城を落とします。

続き、小牧山城を落とすために布陣していた長可ですが、家康の重臣である酒井忠次に奇襲されます。軍勢の立て直しのために小牧羽黒まで引いた長可でしたが、奥平信昌、榊原康政からも攻撃を受け、多数の犠牲者を出してしまいました。長可はやむなく犬山城へ敗走。手痛い大敗となりました。

その後はしばらく両軍に大きな動きはありませんでしたが、4月、秀吉側が動きます。小牧羽黒で敗走した長可の汚名をそそぐため、舅の池田恒興が「家康が小牧山にいる隙に、本拠地である三河を攻め、後方をかく乱する」という策を秀吉に進言したのです。

早速、三好秀次(のちの豊臣秀次)を大将とした本隊8000、第一隊池田恒興・池田元助6000、第二隊森長可3000をはじめとする総勢20000の兵が密かに移動を開始しました。

しかし、この別動隊の動きは家康に察知されてしまいます。秀次軍は挟み撃ちにあって敗戦。岩崎城を落とし、そこに居城していた恒興と長可はこの知らせを受け取ると、城を出て取って返し、徳川勢と対峙しました。

長久手の戦いです。両軍激戦のさなか、前線に出て単騎奮戦していた長可は敵に鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死。まだ27歳という若さでした。

遺言状に、鬼の心を知る

実は長可は戦死する13日前に遺書を遺していたようです。この遺言状には残された家族についての細やかな心配りが記されています。その一部を以下にご紹介します。

もし自分が討ち死にしたら、母は秀吉様から生活費をいただいて京都に住むように。また、末の弟の仙千代は今のまま秀吉様に奉公せよ。

仙千代を自分の後継者に立てるのはくれぐれも嫌である。しかし、この兼山の領地は要であるから、確かな人物を秀吉様においてもらうように。

兼山城の女たちは急ぎ大垣へ移し、その後の処遇は成り行きに任せるように。

粗末な茶道具や刀、脇差、仏陀寺にある他のものは仙千代にとらせる。

次いで、京都の本阿弥家にある秘蔵の脇差2つも仙千代に与える。

娘のおこうは京都の町人か医者に嫁がせよ。

母は必ず必ず京都にいてほしい。

仙千代が私の跡継ぎになるのは嫌だ。

十万に一つ、百万に一つ、総負けになるようなことがあれば、すべてに火をかけて死なせていただく覚悟です。

戦とは関係ない非戦闘員を殺害したり、無理な人質狩りを行ったり、軍規違反を行ったりと、悪名高い「鬼武蔵」も家族の前では一人の人間です。遺言状には家族を思いやる気持ちがにじみ出ています。

長可には跡取りがいなかったため、通常なら長可の死後は弟である仙千代が跡目を継ぐことになります。しかし、長可は弟には武将としての苦難を味あわせたくなかったのでしょう。遺言状の中で2度も「嫌である」と念を押しています。

さらに、娘のおこうには、戦とは無縁の町人か医者に嫁がせてほしいとも考えていたようです。

この遺言状からは、戦場で鬼にならざるを得なかった長可の苦悩が伝わってきます。本当は長可も鬼になどなりたくなかったのではないか。本当は苦しみながら戦っていたのでは。鬼と呼ばれた猛将の心の奥を覗いてみたくなるような、心に迫る遺言です。

まとめ

戦とあらば常に前線で命を張って戦ってきた長可。鬼のような強さは、大切な者を守るために身に着けざるを得ないものだったのかもしれません。

勇猛果敢な武将として様々な逸話を残した長可の奥深さに改めて魅力を感じる方も多いのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 二木謙一『戦国武将の手紙を読む』(角川書店、1991年)
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
  • 小和田哲夫『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館、2006年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
  • 鈴木輝一郎『戦国の鬼 森武蔵』(出版芸術社、2007年)



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