「今井兼平」木曾義仲と最期をともにした乳兄弟
- 2022/04/08
今井兼平(いまい かねひら)は木曾義仲の乳兄弟で、義仲を支えた「義仲四天王」のひとりです。義仲とともに平家軍と戦い、乳兄弟の中では唯一義仲と最期をともにした武将です。その最期については『平家物語』巻第九「木曾最期」にくわしく描かれています。
血縁の従兄弟頼朝とは協調できずに敵対した義仲が、幼少期から死の間際までともにあったのは、血縁ではない乳母子(めのとご)たちでした。兼平ら兄弟と義仲とは、血をわけた家族以上の絆があったようです。
義仲との関係と最期の場面を中心に、今井兼平について紹介します。
血縁の従兄弟頼朝とは協調できずに敵対した義仲が、幼少期から死の間際までともにあったのは、血縁ではない乳母子(めのとご)たちでした。兼平ら兄弟と義仲とは、血をわけた家族以上の絆があったようです。
義仲との関係と最期の場面を中心に、今井兼平について紹介します。
義仲の乳兄弟として一緒に育つ
兼平の主となる木曾義仲は、久寿2(1155)年に父・源義賢を討たれ、乳母の夫・中原兼遠に託されました。以後、義仲は信濃国の木曽の地で、兼遠の庇護のもとで育ちます。兼平はこの兼遠の子として生まれました。いつ生まれたかははっきりしませんが、『平家物語』の「今井の四郎兼平、生年卅三(33)にまかりなる」という兼平の名乗りが正しいのであれば、逆算して1150年前後に生まれたと考えられます。
兄には樋口兼光、姉妹に義仲の愛妾となる巴がいました。木曽で暮らしていたころの義仲について詳しいことはわかっていませんが、兼平らきょうだいとは本当のきょうだいのように親しんだといわれています。
兼平の活躍
治承4(1180)年、以仁王の令旨を受けた義仲は、同年挙兵した頼朝と同様に挙兵しました。兼平ら乳母子たちも従ったことは言うまでもありません。養和元(1181)年5月、城助茂(助職)と戦った横田河原の戦いに加わった武士の中に兼平の名が見えます。寿永2(1183)年、義仲と頼朝の関係が悪くなり、義仲の嫡男・木曾義高を頼朝の長女・大姫の許婚として鎌倉へ送ることで一旦和睦しました。許婚とはいうものの、実際は体のいい人質です。義仲がその決断をした時、兼平は大反対したとか。
同年5月、再び平家との戦いが北陸道で起こりました。平家軍が加賀国の源氏方の林・富樫氏の城を落とすと、援軍を求められた義仲は兼平に6000余騎を託しました。
兼平は越中国の盤若野(現在の富山県高岡市南部)で平家軍と戦い勝利しています。暗闇に紛れて奇襲をかけた兼平軍は平家軍を2000あまり死傷させたといいます。続く俱利伽羅峠の戦いでも、劣勢になった義仲の叔父・源行家の軍のもとに援軍として駆けつけ、平家軍を退ける活躍を見せました。
6月、加賀国の篠原の戦いで平家軍を破り勝利すると、7月に義仲とともに入京しています。
義仲の後を追った兼平
平家を都落ちさせて入京した義仲は、戦とは違い都での人間関係、交渉事はうまく運びませんでした。田舎者の木曾の武士たちは都で乱暴狼藉を働いて嫌われ、義仲自身も皇位継承問題に口をはさんで後白河院と対立し、関係を悪くしました。平家追討のため西国へ行けという後白河院の催促に、義仲は不在の間に自分の地位が鎌倉方に奪われかねないため渋っていましたが、9月になると重い腰を上げて平家追討に出ました。しかし、案の定その隙に後白河院は頼朝との関係を強めました。10月にはいわゆる十月宣旨が下され、頼朝の東国支配が公認されたのです。
水島の戦いに敗れた義仲は都へ引き返し、11月に院の御所・法住寺を襲撃。後白河院を幽閉しました。この戦いでも兼平は活躍したといわれます。
武力で政権を奪ったのもつかの間、翌元暦元(1184)年正月、義仲は頼朝がよこした源範頼・義経兄弟に敗れました。兼平は宇治川の戦いに敗れて近江国の粟津の戦いで討たれた義仲の後を追い、自刃します。
その最期について、どこまで史実かはわからない物語ではありますが、『平家物語』「木曾最期」のエピソードを紹介しましょう。
義仲は7騎にまで減ってボロボロになりながら、気がかりだったのは兼平のことでした。それは兼平も同様で、勢田で討死すべきと思ったが義仲が気がかりで参ったのだ、と手を取り合って言います。ふたりは「死ぬなら同じところで」と誓いあっていたのです。
義仲と兼平、最後は主従2騎になり、義仲は「日来はなにともおぼえぬ鎧が今日は重うなッたるぞや」と弱音を吐くのも、兼平とふたりだけになったからでしょうか。そう言う義仲に対して兼平は次のように言います。
「御身もいまだつかれさせ給はず。御馬もよわり候はず。なにによッてか、一両の御着背長を重うはおぼしめし候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらくふせぎ矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ」
「体もお疲れになっていないし、馬もまだ弱っていないのに、なぜ重く思われるのか。味方に軍勢がいないため臆病になっているのでしょう。この兼平ひとりでも、武者千騎と思ってください。矢が7,8本あるのでしばらく防ぎましょう。あの粟津の松原の松の中でご自害なさいませ」と、「何を弱気なことを」と叱咤しつつ自害を促すのは矛盾しているようにも思えますが、もうだめだ、という時ほど泰然としていようという思いでしょうか。
義仲は自刃ではなく「一緒に討死しよう」と言うのですが、それを聞いた兼平が慌てて「体は疲れているし、味方はいないのです」と止めるのは、やはりこっちが本心なのでしょう。国中に名がきこえる木曾義仲がそのへんのつまらない敵に討たれたなどと人々に言われるようなことがあっては残念だから、とやはり松原へ向かわせます。
たった1騎で50騎あまりの敵を前にした兼平の名乗りは、やはり「木曾殿の御めのと子、今井兼平」です。これは他の乳母子たちも同様です。彼らにとって義仲の乳母子であることがアイデンティティだったのでしょう。兼平はそのまま8騎を射落としました。
一方、義仲は兼平決死の足止めも空しく、追いついた鎌倉方の石田為久に射られて討ち取られてしまいました。討ち取った為久の声を聞いた兼平は、
「今は誰をかばはむとていくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本(今は誰をかばうために戦おうか。これを見よ、東国の武士たち、日本一の剛の者が自害する手本だ)」
と言って、太刀の先を口にくわえ、馬上から飛び落ちて太刀に貫かれるように自害したのでした。義仲と兼平、主従の絆の強さを物語る最期でした。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
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