「巴御前」義仲の愛妾で、木曾義仲に従って戦功をたてた女武者

東滋実
 2022/01/12
巴御前の出陣図(蔀関月 画、東京国立博物館所蔵)
巴御前の出陣図(蔀関月 画、東京国立博物館所蔵)

巴御前(ともえごぜん)は、女性ながら木曾義仲とともに戦い続け、最後の戦もともにした人物です。日本史上、女性として戦功をたてた人はなかなかいないでしょう。中でも巴御前は『平家物語』や『源平盛衰記』で語られる義仲との悲しい別れのエピソードで有名な女性です。

とはいえ、巴御前は軍記物語にのみ登場し、『吾妻鏡』などの歴史書には出てきません。残念ながら伝説的なエピソードからしか人物像をうかがい知ることはできませんが、主に『平家物語』『源平盛衰記』を参照しながら巴御前を紹介していきます。

巴御前の出自

木曾義仲は、わずか2歳で父の義賢を亡くしました。義仲にとっては従兄弟にあたる源義平(悪源太)に館を襲撃され、討たれてしまったのです。義平は幼い義仲をも殺害しようとしますが、命じられた畠山重能(しげよし)や斎藤実盛の計らいで、乳母の夫である中原兼遠に託されました。

義仲は兼遠の本拠である信濃国の木曽で、兼遠の子らと兄弟のように育ちました。兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平は「木曾四天王」に名を連ねています。そして兼遠の長女は義仲の妻となり、嫡男の志水冠者義高、次男の義基を生みました。

巴御前も中原氏の出身でした。『源平盛衰記』によれば兼遠の子、『源平闘諍録』によれば兼光の子であったとか。

『平家物語』が伝える巴御前の人物像

巴御前は『平家物語』巻第九「木曾最期」に登場します。その冒頭に「木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女をぐせられたり」と紹介されています。「便女(びんじょ)」とは「美女」のことで当て字ではないかといわれますが、召使いの女のことではないかともいわれます。

山吹は都に留まりましたが、巴御前は義仲最後の戦いにも従いました。『平家物語』は、巴御前について次のように記しています。

「中にも巴は色しろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もッては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の兵者なり。究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、さねよき鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。されば今度も、おほくの者どもおちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり」

巴は色白で髪が長く、器量がとても優れた女性だったようです。その上、強弓を引く精兵で、馬上であっても徒歩であっても、相手が鬼であろうが神であろうが立ち向かう一人当千の武者でした。さらに荒馬を乗りこなして険しい坂を駆け降りるような人物で、合戦でも大将として活躍し、彼女の活躍ぶりはほかに肩を並べるものがないほどであったということです。だから、敗れた義仲軍が今わずか7騎になっても、巴御前は討たれず残っている、と紹介されています。

女武者

一次史料や歴史書『吾妻鏡』に登場しない巴御前の女武者としての姿はほとんど伝説のようであり、疑問視されています。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「このような活躍をした女武者は存在し得たのか?」と思うかもしれませんが、いました。板額(はんがく/板額御前、坂額)という越後国の女性です。

板額は平家方の豪族・城資国の娘で、反乱軍の一員として幕府軍と戦いました。『吾妻鏡』建仁元(1201)年5月14日条に、城資盛のおば「坂額」として登場します。

「又有資盛之姨母之。号之坂額御前。雖爲女性之身。百發百中之藝殆越父兄也。人擧謂奇特。此合戰之日。殊施兵略。如童形令上髪。着腹巻。居矢倉之上射襲致之輩。中之者莫不死」

女性の身でありながら百発百中で、父兄を超えるほど。人々は彼女が変わっていると言うけれど、この日の合戦においては特に活躍した。彼女に射られて死なない者はいなかった、というほどの武者であったようです。

同じく『吾妻鏡』によれば、容貌が美しい女性でもあったとか。軍記物語に描かれた巴御前は、この板額の人物像も投影されているのかもしれません。

また、後白河院が編集に関わった平安時代末期の今様歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、次のようなものがあります。

「このごろ京に流行るもの 柳黛髪々似非鬘 しほゆき近江女女冠者 長刀持たぬ尼ぞなき」

『梁塵秘抄』巻第二・雑・369 より

このごろ京都で流行っているのは、眉墨で描いた眉、さまざまな髪形、えせ鬘、近江女(遊女)、男装の女、そして長刀を振り回さない尼はいない。

男のような姿をする女も、武器を振り回すような女も、まったくあり得ないものではなかったことがうかがえます。

薙刀術のイラスト

『源平盛衰記』に描かれた巴御前が参加した戦い

『源平盛衰記』によれば、巴御前の初陣は、治承5(1181)年6月の横田河原の戦いだといわれています。平家方の越後の豪族・城氏との戦いで、義仲軍の勝利に終わりました。その後巴御前は俱利伽羅峠の戦い一千余騎を率いて戦ったとか。

義仲が都で孤立し、とうとう頼朝が遣わした軍と戦わなくてはならなくなった時も、はやり巴御前は義仲とともに戦いました。

宇治川の戦いでは、かつて幼い義仲の命を助けた畠山重能の子・重忠と戦っています。重忠は相手がかの女武者巴御前と知り、義仲の愛妾と知ると心惹かれ、戦いを挑みます。しかし結局巴御前の片袖を掴むことしかできず、逃がしてしまいました。重忠は強馬ですばやく逃れていく巴御前を見てなんだか恐ろしくなり、退却していきました。

義仲との別れ

『平家物語』に描かれた別れの場面を紹介しましょう。巴御前は義仲軍の残りが主従5騎になっても討たれず残っていました。ここにきて義仲は、

「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンど、いはれん事もしかるべからず」

(お前は早く、女なのだからどこへでも行け。私は討死しようと思っている。もし捕まったら自害するつもりなので、義仲が最後の戦いに女を連れていたと言われるのもよくない)

『平家物語』巻第九「木曾最期」より。()内は筆者訳

と言って、巴御前を信濃国へ帰そうとします。

ここまで連れておきながら「最後に女を連れてると言われるのは嫌だ」とは今さら何を、と思いますが、巴御前もそんな気持ちだったのか、なかなか去りません。

それでも義仲が何度も同じように帰そうとするので、「最後の戦を見せましょう」と言って、御田八郎師重に駆け寄って引き落とし、自身の鞍の前輪に押し付けて首をねじ切って捨てました。敵を倒して見せると、鎧を脱ぎ捨て、東国へ落ちて行った、ということです。

巴御前は、『源平盛衰記』でもやはり最後に戦っています。冑を脱いだ巴御前は、額に天女のような天冠をあて、白づくりの笠を着ました。この美貌の巴御前を見た敵の内田三郎家吉(遠江国の武士)はしばらく見とれ、かの巴御前と知ると捕えようとしました。こちらでも巴御前はやはり「木曾殿にお目にかける巴のいくさの相手をせよや」としばしにらみ合い、最後には内田三郎家吉を鞍の前輪に引き付けて首を斬ってしまいました。この展開は『平家物語』と同様です。

巴御前のその後

『平家物語』のとある本では、その後巴御前が尼になったと伝えています。

『源平盛衰記』はまた違います。軍装を解いて小袖姿になった巴御前は、義仲の遺品の小太刀を携えて泣く泣く信濃国へ帰りました。その後頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉に召し出されて幕府御家人の和田義盛の妻となり、朝比奈義秀を生んだ、とされています。しかし巴御前が朝比奈義秀を生んだとするには年の計算が合わないので、『源平盛衰記』の創作か、あるいは生母ではないかのどちらかでしょう。

なぜ巴御前は鎌倉に召し出されたのか。『吾妻鏡』に、頼朝の妻・政子が義仲の妹の宮菊を猶子にしたという記録もあります。ひとつ、敵対した義仲の愛妾を鎌倉に召し出して大切にした理由として、頼朝の娘・大姫が関係していると考えられています。

大姫は義仲と頼朝の和睦のため人質として鎌倉に送られた志水冠者義高と婚約していましたが、義仲が敗死した同じころ、頼朝の命令で殺害されていまいました。大姫はこれにショックを受け、その後ふさぎ込んでしまいます。そして、舞い込んでくる結婚の話も断り、20歳前後で早世してしまったのです。

『源平盛衰記』は、さらにその後の巴御前についても書いており、朝比奈義秀を戦で失った巴御前は越中国で尼になり、91歳まで生きたとしています。このように90歳を超えて生きたというと、やはり史実ではなく伝説のような気がしてきます。

女武者として実在したかどうか疑わしい人物ではあるのですが、軍記物語に描かれた巴御前には人の心を惹きつける魅力があるのでしょうか。のちに能の演目として巴御前の霊を主役とする『巴』がつくられています。修羅能で女武者を主人公とする唯一の演目で、わりとあっさりと終わった『平家物語』の別れとは異なり、亡くなってもなお義仲を思慕する巴御前が描かれています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『新版 能・狂言辞典』(平凡社)
  • 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
  • 校注・訳:臼田甚五郎・新間進一・外村南都子『新編日本古典文学全集42 神楽歌/催馬楽/梁塵秘抄/閑吟集』(小学館、2000年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 円地文子監修『人物日本の女性史第三巻 源平争乱期の女性』(集英社、1977年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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