「姫の前」大河・鎌倉殿の13人での役名は比奈! 頼朝の仲介で北条義時の正室となった権威無双の女房

東滋実
 2022/06/07
姫の前のイラスト

北条義時には何人かの妻妾がいました。主に知られているのは、義時の後継者として鎌倉幕府黄金期をつくった泰時の母・阿波局と、今回紹介する正室の姫の前(ひめのまえ)、そしてその後に妻となった伊賀局です。

比企一族の娘である姫の前は、おそらく頼朝が比企氏と北条氏をうまく結びつける目的で義時と結婚したと考えられますが、それもむなしく北条氏と比企氏は敵対することになります。

比企朝宗の娘で御所の女房

姫の前の父は、源頼朝の乳母・比企尼の息子で比企朝宗(ともむね)といい、西国での平家追討、その後の奥州攻めにも加わった武将です。

比企尼の子としては猶子となって家督を継いだ比企能員が知られています。朝宗は比企尼の実子で比企一族の惣領であったと思われますが、男子に恵まれなかったため、その地位は猶子の能員に移ったという説があります。

姫の前は、頼朝の御所で女房として働いていた女性でした。義時最初の妻・阿波局(義時の妹の阿波局とは別人)も御所に勤める女房だったといわれているので、2回続けて職場結婚だったのかもしれません。

頼朝の命令で、北条義時と結婚

姫の前にラブレターを出し続けた北条義時

『吾妻鏡』の姫の前と義時の結婚について伝える記事(建久3(1192)年9月25日条)を見てみましょう。

「幕府官女[号姫前]今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女。當時權威無雙之女房也。殊相叶御意。又容顔太美麗云々。而江間殿。此一兩年。以耽色之志。頻雖被消息。敢無容用之處。將軍家被聞食之。不可致離別之旨。取起請文。可行向之由。被仰件女房之間。乞取其状之後。定嫁娶之儀云々」

姫の前は、「権威無双の女房」と呼ばれるほど比類ない力を持った幕府の女房で、頼朝のお気に入りだったようです。容貌がとても美しかったので、義時は姫の前に惚れてしまい、何度も何度も手紙を送りました。しかしまったく相手にされません。それを知った頼朝は、義時から決して離縁しないという起請文を書かせ、二人の仲を取り持って結婚させました。この建久3年9月25日が、姫の前が初めて義時の邸へ渡った日でした。

ドラマでは八重に猛烈アプローチする義時

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、義時は初恋の相手・八重に見当はずれのほとんどストーカーに近いアプローチを続け、その気がなかった八重を困惑させ、時に怒らせながら、決してあきらめず晴れて結ばれました。

ドラマに登場する八重は、頼朝と別れさせられた後に江間次郎の妻となったとされ、『曾我物語』ではその後に頼朝が政子と結婚したことを知ると、失意のうちに入水して亡くなったといわれています。この最期は物語の伝えることなので伝説の域を出ず、ドラマの時代考証を務める坂井孝一氏は八重が頼朝を通じて義時の妻となり、泰時を生んだのでは、と考えられています。

とはいっても、頼朝と別れた後のことはほとんど伝わっていない八重の人物像はほとんどドラマの創作といっていいでしょう。長らく義時になびかなかった八重のつれないキャラクターは、『吾妻鏡』が伝える姫の前の人物像をモデルにしてつくられたのかもしれません。

少し話がそれましたが、八重への腐った餅や食べきれない魚プレゼント攻撃はフィクションであるのに対し、義時の姫の前に送ったラブレター攻撃は史実なのです。実際の義時に恋に積極的でありながらなかなか自分だけでは叶えられない初心なところがあったと思うとほほえましいですね。

頼朝が義時と姫の前との間を取り持ったのは、かわいい弟分のために一肌脱いでやろうという気持ちももちろんあったと思われますが、理由はそれだけではなかったでしょう。比企氏の惣領・能員は頼朝の後継者・頼家の乳母夫で、頼朝の正室・政子の実家である北条氏と同等の力を持っていました。

また、このエピソードの直前に誕生した頼朝次男・千幡(のちの源実朝)の乳母は義時の妹の阿波局でした。比企氏と北条氏、これからの幕府を支えるふたつの家を、姫の前と義時の婚姻によってうまく結び付けようという目的があったと考えられます。

そんな頼朝の思惑はともかく、恋を叶えた義時はこの幸福を喜んだことでしょう。ふたりの関係は良好で、翌建久4(1193)年に義時の次男である朝時が、建久9(1198)年には三男の重時が生まれています。

比企氏の滅亡後の姫の前

ふたりの仲を取り持った頼朝が亡くなった後の建仁3(1203)年、能員は第2代将軍となった頼家の子・一幡の外祖父(一幡の母・若狭局は能員の娘)として権勢を振るっていましたが、対立した北条時政によって比企一族はまとめて滅ぼされてしまいました。

『吾妻鏡』には姫の前やその父・朝宗について詳しいことは何も書かれていませんが、比企氏出身の姫の前はこの事件をきっかけに義時と離縁したと考えられています。

姫の前と別れた義時は継室に伊賀の方を迎え、姫の前は歌人の源具親(ともちか)の妻となりました。姫の前の再婚は、歌人・藤原定家の日記『明月記』に具親の子が北条朝時の同母弟とあることから、そうであろうと考えられています。姫の前は事件の翌建仁4(1204)年に具親の子を生んでいるので、事件直後に離縁したようです。再婚した姫の前は具親の子をふたり生むと、数年のうちに亡くなりました。

「義時からは決して離縁しない」という起請文を書いてまで結ばれたふたり。結局約束は果たされることなく、悲しい別れとなりました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

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