「義円」叔父・源行家とともに戦って討死した源頼朝の異母弟

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で成河さんが演じられていた義円(ぎえん)は、源頼朝の異母弟であり、源義経の同母兄にあたる僧侶です。

頼朝の挙兵に従って兄弟たちは続々と兄・頼朝のもとに馳せ参じましたが、この義円についてはその記録がありません。というわけで、兄に気に入られた義円に嫉妬した義経の策謀で死地へ……というドラマの展開は創作かと思われます。

義経の同母兄

久寿2(1155)年、義円は河内源氏の棟梁・源義朝とその妾の常盤御前との間に生まれました。

平治元(1160)年の平治の乱で父・義朝が平清盛に敗れて殺された後、母・常盤御前は清盛に今若(阿野全成)・乙若(義円)・牛若(義経)の3人の子の助命を願い、それぞれ仏門に入ることで助けられたといわれます。乙若は最初、現在の滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ/三井寺)に入って後白河院の第四皇子・八条宮円恵法親王の坊官となり、「卿公」と称しました。

墨俣川の戦いで討死する

治承5(1181)年3月、美濃国墨俣(現在の岐阜県大垣市)で、源行家・義円の尾張・三河勢6000騎と平重衡・維盛・通盛・忠度ら平家軍およそ3万騎が衝突しました。この両軍の兵力は『延慶本平家物語』に記された数ですが、同時代の貴族・九条兼実の日記『玉葉』に記された源氏軍の数も5000余騎なので、源氏方が圧倒的に少なかったというのは間違いないでしょう。

この兵力差からして結果は火を見るよりも明らかですが、源氏軍は惨敗しました。義円と行家が互いに功を焦って先陣を争ったため指揮命令系統が乱れ、それが敗因になったともいわれます。

行家は命からがら生き延びましたが、義円はこの戦で討死しました。『平家物語』によると、義円は深入りしたために討たれてしまったとか。『吾妻鏡』治承5(1181)年3月10日条には、義円が平(高橋)盛綱に討ち取られたと記されています。

治承4(1180)年に兄の頼朝が挙兵すると義円もそれに加わったといいますが、他の兄弟(範頼・全成・義経)と違って兄と対面した記録が『吾妻鏡』に見えません。そのため、墨俣川の戦いにどういう立場で参加していたのかははっきりしていません。

義円には義成という子がおり、尾張国愛智郡(現在の愛知県愛知郡)を所領としていたことから「愛智」と称していました。この所領は「外家所領」つまり母方の親族の所領であったようです。義成の母は愛智郡司慶範女とされています。義成は父の死後、愛智郡の司であった母方の祖父を頼ったものと思われます。

このことから、義円の子の母が愛智郡司であったならば、義円自身ももともと尾張国に縁があり、同じく尾張国や三河国に勢力を築きつつあった叔父・行家と合流したとする見方があるようです。

ただ、『源平盛衰記』は頼朝が行家の応援のために義円を送ったとしています。義円と行家が先陣を争ったというのは、ここからきています。義円が頼朝に遣わされたのであれば、頼朝と折り合いの悪い叔父と功を競い合ったというのも頷けます。

おわりに

岐阜県大垣市にある墨俣川古戦場には、現在「義円公園」ができていて、義円の供養塔や碑、義円地蔵などがあり、少し行ったところに義円の墓も建てられています。義円が討死した3月10日には毎年供養が行われているようです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)
  • 太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』(国民社、1942年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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