「藤原泰衡」奥州藤原氏最後の当主! 国衡らと兄弟相克の末、最大の味方・源義経を殺害した理由とは?

コロコロさん
 2022/05/27
藤原泰衡(鎌倉殿の13人版)のイラスト

源平合戦だと、源氏や平家はクローズアップされますが、奥州藤原氏はどこか脇役の扱いをされていますよね。最終的には源義経を匿っていたことで源頼朝に滅ぼされてしまいます。

そんな奥州藤原氏の最後の当主が藤原泰衡(ふじわらの やすひら)です。泰衡は何と戦い、何を目指して生きたのでしょうか。今回は藤原泰衡の生涯について見ていきます。

藤原秀衡の次男として誕生

久寿2(1155)年ごろ(諸説あり)、藤原泰衡は陸奥国で奥州藤原氏当主・藤原秀衡の次男として生を受けました。生母は前陸奥守・藤原基成の娘(正室)です。幼名は太郎、あるいは伊達(小)次郎と称したと伝わります。

当時は正室所生の子が家督相続者となる時代した。長兄・藤原国衡は東北地方の武士たちから信望を集めた人物でしたが、生母は側室であったため家督相続は難しい地位にあります。このため泰衡は、生誕時から将来の家督相続候補者として位置付けられていました。

泰衡が生まれた奥州藤原氏は、東北地方一円に勢力を築いた家です。保元2(1157)年には、父・藤原秀衡は陸奥国と出羽国の押領使(軍事警察の長官)を補任。平泉を中心として強大な軍事力と経済力を誇っていました。

東北地方では金が産出され、日宋貿易では重要な輸出品として位置付けられています。後世に『東方見聞録』で「ジパング」と位置付けられるのは、東北地方のイメージがあったからだと考えられます。 平泉は最大都市である京に次ぐ規模となり、人口は10万人を突破。中尊寺や毛寺などの優れた寺院建築は、浄土を現出したと喩えられるほどでした。

泰衡は生まれながらにして、将来の東北地方及び奥州藤原氏の支配者として期待されていたのです。

早い時期から源義経との関わりがあった?

東北に生まれた泰衡ですが、決して中央政界と無関係だった訳ではありません。

平治元(1159)年、京において平治の乱が勃発。藤原信頼や源義朝らが院近臣・信西を殺害し、後白河院を幽閉するという暴挙に出ます。しかし平清盛は後白河院や二条天皇を保護。官軍となって乱の鎮圧に成功しました。戦後、信頼は斬首され、義朝は敗死。義朝の遺児・頼朝は伊豆国に流罪と決まります。

泰衡の祖父である藤原基成は信頼の異母兄でした。このため、鎮圧後に基成も連座して陸奥国に流罪となります。 以降、基成は奥州藤原氏の政治顧問として活動。奥州藤原氏とより結びつきを強めていきました。

加えて基成は、源氏とも繋がりを持っています。基成の従兄弟叔父には、大蔵卿・一条長成がいました。長成は平治の乱後、義朝の側室・常盤御前を正室に迎えます。常盤御前は既に義朝との間に阿野全成、義円、源義経の三人の男子をもうけていました。

つまり、泰衡は既に源氏の御曹司たちと関わりを持っていた可能性があるのです。

国衡との家督争いと「伊達小次郎」

泰衡は将来の家督相続者として位置付けられたものの、決して安定した地位にいた訳ではありません。

長兄・国衡は「父太郎」あるいは「他腹之嫡男」と称されていました。生母は側室(蝦夷、あるいは信夫佐藤氏の娘)でしたが、東北地方に根ざした家であったため、周囲からの信頼も厚かったようです。

一方、泰衡は「母太郎」あるいは「当腹太郎」と称され、嫡男ではありましたが支持基盤は外祖父・基成などわずかな勢力だったと考えられます。

東北地方の武士たちからすれば、京から来た公家よりも土着した存在を近しいと感じるのは当然です。だからこそ二人を「太郎」として併立させて考える呼び方が存在したのではないでしょうか。

実際に国衡も泰衡も、奥州藤原氏の通り字(一族の人間が諱に用いる特定の文字)である「衡」を授かっています。 通り字を与えられない場合、家督相続者でないと示す効果がありました。父・秀衡にとっても、東北武士たちの信任が厚い国衡を非嫡男とすることには抵抗があったようです。

当然、泰衡も自身の立場を固めるために動いていたようです。『人々給絹日記』には、泰衡を「伊達小次郎」と紹介していました。 このことから、泰衡は陸奥国南部の伊達郡に土着していたようです。

当時の武士たちは、藤原や源、平などの「姓」とは別に土着した土地などから「苗字」を名乗っていました。伊達郡は信夫郡と隣接した地域です。信夫郡を統治する佐藤基治は秀衡の従姉妹を正室としており、娘を藤原忠衡(泰衡の弟)に嫁がせるなど、奥州藤原氏とは深い関係にありました。

泰衡が伊達郡の支配を行なっていた可能性は十分にあります。泰衡は平泉から離れた土地を支配することで、同時代の武士たちと同様に自らの勢力を築こうとしていたのではないでしょうか。

決してお坊ちゃん的な環境に甘んじてはおらず、むしろ武士然とした環境で生きていました。

平家の政治的策略と鎮守府将軍

やがて奥州藤原氏は中央政界との争いに巻き込まれていきます。 嘉応2(1170)年、父・秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任されました。五位以上は殿上人とされ、清涼殿に昇殿できる地位です。加えて鎮守府将軍は、当時の最高武官職でもありました。

通常は奥州藤原氏が朝廷から認められた、と思える人事です。しかし実際は違いました。ときの右大臣・九条兼実は秀衡を「奥州の夷狄」と蔑み、鎮守府将軍就任を「乱世の基なり」と糾弾しています。

つまり貴族たちの多くは、奥州藤原氏を評価するどころか蔑む傾向にあったことがわかります。このとき、秀衡の任官を押し進めたのは平清盛ら平家一門でした。当然、思惑があっての叙任劇だったようです。

平家は日宋貿易を推し進める立場でした。しかし特に重要な輸出品である金は、東北地方から産出されています。すなわち、東北地方を確保することは金を手に入れることでした。

秀衡の鎮守府将軍任官は「官打ち」という意図があったようです。官打ちは、分不相応な官位を与えることで破滅させるという政治的手法でした。

この頃から、秀衡や泰衡は平家に対抗すべく手段を講じていきます。承安4(1174)年には、奥州に下向した源義経を保護。平泉において養育しています。

平家打倒の英雄となった義経を匿う

やがて源平合戦が始まると、奥州藤原氏も間接的に関わっていきます。

治承4(1180)年、後白河法皇の第三皇子・以仁王が源頼政と共に挙兵。平家打倒の令旨(親王の命令文書)を全国の源氏や大寺社に送ります。

同年には伊豆国で源頼朝が、信濃国では源(木曽)義仲が挙兵。全国で平家を倒すべく源氏が立ち上がります。 このとき、奥州にいた義経も兄の頼朝に合流を希望していました。秀衡は義経に佐藤継信と忠信兄弟を従者に付けて送り出します。 頼朝軍に加わった義経は、その軍略を如何なく発揮。文治元(1185)年には、一ノ谷や屋島で平家軍を破り、壇ノ浦の戦いで滅亡に追い込みました。

しかし義経は朝廷と接近し、検非違使への無断任官などを巡って鎌倉の頼朝と対立していきます。 義経は頼朝追討の院宣(法皇や上皇による命令文書)を獲得しますが、兵は集まりませんでした。

やむなく義経は京を脱出して逃亡。九州に渡海しようとするも果たせず、北陸道から奥州に入ります。 秀衡は義経を再び迎え入れて保護。頼朝からの政治的圧力にも屈せずに守っていました。

泰衡の裏切り ~父の遺言を破り、義経を討つ~

やがて泰衡らの運命は思いがけずに暗転していきます。

文治3(1187)年、秀衡は病を得て死の床につきました。臨終に際し、秀衡は泰衡・国衡・義経に結束すべく起請文を書かせます。秀衡は義経を大将軍に指名して、事実上の後継者に据えました。加えて泰衡と国衡の兄弟は、義経を支えるように求めています。

さらに秀衡は国衡に自らの正室(泰衡の生母)を娶らせて、義理の親子関係を築かせました。兄弟関係が決して良好ではなく、家督相続をめぐって争いが起こることを防ぐものでした。

秀衡の没後、泰衡は家督を相続。奥州藤原氏の四代目当主に就任し、一族をまとめる立場となります。秀衡の遺言によって、奥州藤原氏と義経は結びつきを強めていました。それは鎌倉の頼朝にとって脅威だったのです。

頼朝は表立って戦を起こそうとせず、政治的動きで両者の分離を図っていきました。翌文治4(1188)年、頼朝は二度にわたって朝廷から義経追討の宣旨を出させています。さらに泰衡に対して義経を追討するように求めていました。義経も危機的状況を察しており、奥州を脱出して再び京に舞い戻る動きを見せています。

文治5(1189)年、頼朝は奥州追討の宣旨を朝廷に要請。院においても検討がなされています。 同年閏4月、泰衡はついに義経殺害を決断。500の兵を集めた上、義経がいる衣川の館を急襲しました。

義経主従はわずか10数騎であり、抗すべくもありません。郎党である武蔵坊弁慶らは義経を守るべく奮戦。しかしことごく泰衡の手勢が討ち取ります。義経は持仏堂で正妻の郷御前と四歳の娘を殺害し、自らも自害して果てました。死後、義経の首は鎌倉に送られと伝わります。

泰衡、奥州藤原氏の最期

泰衡の行動は、奥州を守るために徹底されたものでした。殺害したのは、義経だけではありません。義経に味方した弟の藤原忠衡・通衡・頼衡も誅殺に及んでいます。

弟たちは秀衡の遺言を破った泰衡に謀反を計画していました。頼朝に対して恭順の姿勢を取るためとはいえ、奥州は動揺していたようです。しかし頼朝はこの隙を逃しませんでした。

文治5(1189)年6月、頼朝は全国に動員令を発出。奥州藤原氏を討つべく、武士たちに呼びかけます。 翌7月には頼朝自らが鎌倉を出陣。鎌倉方の大軍は越後国・下野国・常陸国の三方向から奥州へと兵を進めます。

泰衡は国分原に本陣を構え、迎撃態勢を築きます。一方で長兄・国衡は奥州藤原氏の総大将として阿津賀志山で鎌倉方と戦いますが、あえなく敗北し、和田義盛に討ち取られてしまいました。

泰衡は国衡の敗報に接するや程なくして撤退。平泉に退いて、居館や町に火を放ちます。その後、頼朝に対して降伏の嘆願書を提出しますが、許されませんでした。

平泉を去った泰衡は、出羽国比内郡に逃亡。河田(安田)次郎守継を頼り、贄柵に潜伏します。いずれは夷狄島(北海道)に逃れる計画でした。しかし河田次郎が泰衡を裏切って殺害。享年三十五。墓所は中尊寺金色堂にあります。

その後、河田は首を持って頼朝の元に帰順を願い出ますが、許されずに斬首されました。奥州藤原氏の100年の栄華は、こうして幕を閉じています。


【参考文献】
  • 平泉町HP 「奥州藤原氏」
  • ジャパンナレッジHP 「藤原秀衡」
  • 秋田県大館市HP 「古代の大館」
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 高野眞藤 『平泉志』 1907年
  • 来田貞吉 『奥州における御館藤原氏』 2015年
  • 日本博学倶楽部 『源平合戦・あの人の「その後」』 PHP研究所 2013年
  • 高橋崇 『奥州藤原氏』 中央公論新社 2002年
  • 『仙台市史』通史編2(古代中世) 仙台市 2000年
  • 『国史大系吾妻鏡』 吉川弘文館 1974・1975年
  • 『玉葉』 国書刊行会 1906・1907年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 ...

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