• [PR]

「乱世の設計者」二条良基:将軍の力を借りて朝廷をリデザイン! 足利義満と歩んだ再興への道

  • 2025/11/28
二条良基の肖像(同志社大学歴史資料館蔵、出典:Wikimedia Commons)
二条良基の肖像(同志社大学歴史資料館蔵、出典:Wikimedia Commons)
 足利尊氏と新田義貞の激突に象徴される南北朝の動乱。それは、単なる武士同士の争いではなく、公家社会をも根底から揺るがした未曾有の危機でした。二人の天皇、二つの朝廷が並立するという異常事態の中で、公家たちは家門の存続と朝廷の正当性を守るため、政治の荒波を必死に漕ぎ渡ります。

 今回焦点を当てるのは、北朝側の最重要人物として朝廷を牽引し、のちの室町幕府全盛期を築く足利義満を「プロデュース」した稀代の政治家、二条良基(にじょう よしもと)です。10代で父と共に後醍醐天皇の倒幕計画に連座し失脚。やがて北朝の重鎮となりながらも儀式知識の不足を嘲笑された苦難の時代。そして晩年、類まれな才能を持つ若き将軍・足利義満と出会い、共に朝廷復興の夢を追った、波乱と功績に満ちた生涯を辿ります。

  • [PR]
  • [PR]

倒幕の動乱による失脚と父の死

 二条良基は元応2年(1320)、関白二条道平と西園寺家出身の母を持つ、公家社会の頂点に立つ名門の嫡男として生を受けました。7歳で元服、9歳で権中納言に昇進するなど、公卿の最高位である摂関家の後継者として順調なエリートコースを歩んでいました。

 しかし、彼の運命は11歳で一変します。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げて失敗し、隠岐へ流されます。この時、父・道平は倒幕計画への関与を疑われ、官職を追われて謹慎処分に。良基もその煽りを受けて官職を剥奪されてしまいます。

 さらに翌元弘2年(1332)、鎌倉幕府は二条家の断絶という厳罰まで決定します。幸いにも政情不安から処刑は実行が遅れ、その隙に反幕府勢力が再結集。元弘3年(1333)には足利尊氏や新田義貞らの離反により鎌倉幕府は滅亡し、二条家は危機一髪で断絶を免れます。

 建武の新政では、二条家は命の恩人とも言える後醍醐天皇に仕えますが、建武2年(1335)、心労がたたったのか、父・道平が急逝。わずか15歳の良基が、名門二条家の運命と、混迷極める朝廷での立ち位置を決める重大な責任を負うことになるのです。

北朝の苦境を救った若き関白

 父の死から間もない建武3年(1336)、足利尊氏と後醍醐天皇の対立は決定的となり、後醍醐天皇は京都を離れ、吉野で南朝を開きます。

※参考:南北朝動乱における主な登場人物。実線は血縁関係(縦線は父子、横線は兄弟関係)
※参考:南北朝動乱における主な登場人物。実線は血縁関係(縦線は父子、横線は兄弟関係)

 この際、三種の神器を持ち去ったことで、京都に残った光明天皇(北朝)側は、天皇の正統性に関わる深刻な問題に直面しました。

 多くの公家が南朝への合流を考える中、良基は京都に残り、足利政権と新帝・光明天皇に仕えることを決意します。一説に大伯父・二条師忠の意向とも言われていますが、詳細は不明です。自邸を光明天皇の元服の儀式場として提供するなど、良基は北朝の要人として確固たる地位を築き始めます。

 一方で、良基には致命的な弱点がありました。それは、公家にとって必須の儀式や礼儀作法の知識が極度に乏しいことでした。父の早世に加え、戦乱で親戚や家の日記記録を失った良基は、独学でそれらを習得せざるを得ませんでした。古い記録に頼ったため、彼の所作やマナーは時代遅れと見なされ、公家たちからは「古風だねぇ(笑)」と陰口を叩かれることもあったようです。

 そんな良基の関白としての最大の試練は、正平7年(1352)の後光厳天皇の即位式でした。この時、直義と尊氏の権力闘争を経て南朝が京都を襲撃。南朝によって北朝側の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子が拉致、そして三種の神器までもが奪われるという、前代未聞の状況でした。

 天皇も神器もない、儀式に必要な先帝も不在という絶体絶命の危機。良基は関白としてこのイレギュラーな即位式の調整を担います。天皇経験者の代役として光明上皇の生母を立て、神器不在の後光厳天皇に対し、良基は次のように励ましたと伝わっています。

後光厳天皇:「三種の神器ナシでも大丈夫だろうか…」

良基:「天照大神を鏡、足利尊氏を剣、私を勾玉だと思し召しくださいませ」

 こうして即位式をやり遂げた良基は、北朝・室町幕府の消滅という最大の危機を回避し、その名声を確立しました。良基、32歳。この後も良基は南朝の度重なる京都襲撃に苦難を強いられながらも、後光厳天皇を支え続けます。

※参考:持明院統と大覚寺統の略系図
※参考:持明院統と大覚寺統の略系図

政治的失策と「影の重鎮」としての復帰

 10代から戦乱に翻弄されながら北朝を支えてきた良基でしたが、延文3年(1358)、38歳で関白職を追われるという予期せぬ挫折を経験します。

 トラブルの原因は、二条家などが氏寺として信仰していた興福寺の後継者人事を巡る権力闘争です。良基が近衛家との勢力争いのためにこの人事に介入。詳細ははっきりしませんが、近衛家をけん制して二条家の勢力拡大を図ったものの失敗したようです。

 同年4月に足利尊氏が死去した直後に発覚したこの騒動は、室町幕府の不快感を買い、10月に良基は辞任に追い込まれます。

 しかし、良基は北朝の草創期を支えた功労者であり、その政治的手腕と知識は無視できません。彼は「影の実力者」として、その後も幕府や朝廷の重要政策に関与し続けます。そして、彼の生涯のクライマックスとなる出会いが待っていました。

足利義満という傑物との出会い

 当時の朝廷は、度重なる戦乱で所領が荒廃し、財源が枯渇していました。朝廷を支える最大のパトロンは室町幕府でしたが、二代将軍・足利義詮は極度の儀式嫌いで、朝廷との関係は冷え込んでいました。良基は、このままでは朝廷の存続が危うくなると危機感を抱いていました。

 そんな折、義詮が病死し、幼少の足利義満が三代将軍に就任します。義満を補佐していた細川頼之は、多忙ゆえに朝廷周りの対応に手が回らず、旧知の仲である良基に、若き将軍の儀式指導を依頼しました。

 永和4年(1378)、58歳の良基は、20歳の義満に対し、朝廷の儀式作法、特に源頼朝以来の格式ある役職「右近衛大将」拝命の際の作法を教え込みます。義満は教えに熱心に取り組み、難しい所作もすぐに習得しました。

 儀式当日、贅を尽くした義満の行列と、見事な立ち居振る舞いは公家たちを驚嘆させます。これを機に、義満はそれまでの「お飾りの将軍」から脱却し、積極的に朝廷と関わるようになります。良基の思惑通り、義満による朝廷への財政援助は格段に増加しました。

「古き良き朝廷」を再建する良基の執念

 義満は単に財政援助を増やしただけでなく、長年朝廷を悩ませてきた問題の解決にも乗り出しました。それが、強大な権力を持っていた比叡山や興福寺の「強訴(ごうそ)」です。

 武装した僧兵が都でデモを行い、法外な金銭を要求したり、政治介入を強要する強訴は、武力も財力もない朝廷にとって最大の悩みの種でした。良基は将軍義満が、これら有力寺社とのしがらみが薄く、武力・財力に恵まれている点に目をつけました。義満が強気な姿勢で対応したことで、長年の懸案だった強訴は下火になり、良基と義満の名声は共に高まります。良基は、将軍の力を借りて、窮乏から脱した「古き良き姿」の朝廷再建を現実のものとしつつありました。

 しかし、この関係に不満を抱いたのが、同い年で朝廷改革を志していた後円融天皇でした。天皇は、公家である良基が将軍の御機嫌取りに徹し、朝廷の権威をないがしろにしていると感じたようです。もちろん良基は朝廷をないがしろにしている訳ではありません。むしろ、朝廷の一部である将軍の力を借りて、窮乏していた朝廷を「古き良き姿」に戻している、という意識でした。

 対立は激化し、後円融天皇の嫌がらせが頂点に達したのが永徳2年(1382)。後円融天皇は皇太子への譲位を決めます。譲位・即位式を仕切る左大臣・義満(24歳)と関白・良基(62歳)に対し、天皇は即位式への出席を拒否します。天皇の思惑は、二人が困り果てて頭を下げに来ることでした。

 しかし、良基はかつて三種の神器も先帝もいない状況で即位式を成功させた経験があります。義満もまた並の器ではありません。二人は頭を下げるどころか、「来られないならそれで結構」と、後円融天皇不在のまま即位式を強行しました。この断固たる姿勢が公家たちの支持を集め、孤立した後円融天皇はやがて心を病んで隠居に追い込まれます。朝廷は名実ともに義満・良基が主導する体制となりました。

 戦乱の渦中でそのキャリアをスタートさせた二条良基は、足利義満による朝廷復興を見届け、嘉慶2年(1388)、68歳でその波乱の生涯を閉じました。

文学者としての良基

 二条良基は、室町時代に盛んになる「連歌」(複数人が交互に和歌の上の句と下の句を作る遊び)の大成者としても知られています。

 彼は正平11年(1356)に連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、鎌倉時代に始まった連歌を、単なる遊びから芸術へと高めました。多くの連歌会を主催したほか、連歌の作法や理論を記した歌論書も著しています。

 さらに、日記文学の分野にも足跡を残しています。将軍と朝廷の協力による朝廷再興の意識を記した『思ひのままの日記』や、後円融天皇の室町邸行幸を庶民の視点から描いた『さかゆく花』、また女性へのラブレターの作法を教える書簡体小説『思露』など、後世の文学に大きな影響を与えました。

おわりに

 二条良基の生涯は、若くして断絶の危機に瀕し、儀式作法を嘲笑されながらも、北朝の土台を築き上げた苦難の連続でした。しかし、彼はその苦労と政治的知恵を、後の名将・足利義満の才能と結びつけることで昇華させました。

 義満という稀代の将軍を朝廷の「守護者」へと育て上げ、権威と財政を回復させた良基の功績は計り知れません。乱世にあって、後の時代を見据えた「朝廷再建の設計者」であったと言えるでしょう。


【参考文献】

  • [PR]
  • [PR]
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。
  • [PR]
  • [PR]