朝廷と幕府の違いとは?政治の仕組みと権力のありかた
- 2022/08/17
日本は古代から天皇を中心として「朝廷」で政治が行われてきましたが、武士が台頭した鎌倉時代以降、武士が政治を行う「幕府」ができます。南北朝時代に南朝と北朝に分かれて同時にふたりの天皇が立つ状態が続くなど、混乱はありましたが、天皇じたいは存続しています。
以降、三代続く幕府とともに朝廷は続いていくわけですが、朝廷と幕府にはどのような違いがあったのか、また両者の関係はどうだったのか。わかりやすくまとめてみましょう。
以降、三代続く幕府とともに朝廷は続いていくわけですが、朝廷と幕府にはどのような違いがあったのか、また両者の関係はどうだったのか。わかりやすくまとめてみましょう。
朝廷とは
朝廷とは、古代日本から続く天皇を中心とした政治の仕組みや政治を行う場所です。明確な場所を指すなら天皇がいる場所、すなわち御所(内裏)です。時代によって奈良にあったり、滋賀、京都にあったり。もっとも長い歴史を持つのが京の都ですね。天皇や上皇によって政治が行われていた平安時代の京都御所と現在の京都御所の場所は少し離れた位置にあります。
政治を取り仕切るのは天皇と貴族(公家)
武家政権の発足前、つまり平安時代まで政治を取り仕切る中心にあったのは天皇や上皇たちです。もともとトップは天皇でしたが、幼い天皇を補佐する意味で上皇が執政したり、院政期のように上皇が直接政務を行ったりするような時代もありました。
その天皇や上皇を支えて政治を行うのが、現在の政治家や官僚のような役割を持っていた貴族たちです。官位を持った貴族が内裏(朝廷)に集まり政治を行っており、これが奈良・平安と続いていました。
幕府とは
幕府とは、武士によって行われる政治の仕組み、行う場所です。その長にあたるのが征夷大将軍。平安時代末ごろから武家が勢力を伸ばし、平家の滅亡とともに政権を握ったのが源頼朝がつくった鎌倉幕府です。その後、足利尊氏によって開かれた室町幕府、徳川家康によって開かれた江戸幕府と三代続きます。
政治を取り仕切るのは武士
鎌倉幕府
源頼朝が鎌倉に開いた幕府。その成立年は諸説ありますが、「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」の暗記のフレーズで有名な建久3年(1192年)はその一つです。この年に頼朝は征夷大将軍に任命されています。将軍の下には執権・連署・評定衆が置かれ、その下に中央(侍所・政所・問注所・引付所)と地方(六波羅探題・鎮西探題・奥州総奉行・守護地頭)が置かれました。
御家人制度ができ、将軍と御家人は「御恩と奉公」の関係で成り立っていましたが、鎌倉幕府の終わりごろになるとそれが制度として破綻。これが滅亡をもたらす一因であったと考えられます。
室町幕府
足利尊氏によって京都で開かれた幕府。もともと鎌倉幕府の命を受け、挙兵した後醍醐天皇の鎮圧のために京へ。しかし幕府に反旗を翻して六波羅探題を滅ぼします。その後天皇とも対立を深め、幕府を開いて征夷大将軍に。職制は鎌倉幕府をもとにしており、それを発展させ将軍と管領による組織を作り上げました。15代続いた将軍家は義昭の代、信長によって義昭が京を追放された時点で事実上幕府は滅びたものとすることが多いですが、義昭は天正16年(1588年)まで征夷大将軍の職にありました。
江戸幕府
関ケ原の戦い後、慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任官した時点から創設された幕府です。家康の本拠地であった江戸で開かれ、その後15代慶喜が大政奉還をして政権を朝廷に返上する慶応3年(1867年)までのおよそ260年続きました。いつから「幕府」と呼ばれるように?
さて、私たちは歴史を習ううえで歴史的概念として「武家政権」の意味で「幕府」という言葉を用いていますが、それぞれの幕府があった当時はどのように捉えられていたのでしょうか?そもそも、「幕府」の語は中国に由来します。将軍が戦に出て幕営にあったため、将軍の居る場所という意味で用いられたとか。それが日本では「近衛府」の唐名として用いられ、転じて近衛大将やその在所を意味する言葉として用いられました。
鎌倉幕府を開いた頼朝が右近衛大将であったことから鎌倉の居館を幕府と呼んだものと思われますが、頼朝はすぐに征夷大将軍となっています。それ以降の武家政権とその政庁を「幕府」と呼称しますが、本来の意味とは関係がなくなってしまいました。
天皇と公家中心の公家政権「朝廷」に対して将軍を中心とした武家政権を「幕府」として定着するのは、実は江戸中期ごろともいわれます。
公武の対比をするのにわかりやすかったため、武家政権の概念として定着したのでしょう。実際は幕府より「柳営」の語で将軍や幕府のことを言いあらわしていたとか。
権力争い「朝廷 vs 幕府」
武家政権発足後も朝廷は続いています。というより、鎌倉幕府ができた当初、朝廷にとって幕府は目の上のたんこぶのような存在でした。征夷大将軍とは「夷(つまり蝦夷)」を征討するために天皇に任じられて派遣される将軍で、国のトップではないはず。それを、天皇をよそに関東でゴソゴソしているので、時の権力者であった後鳥羽上皇は天皇(朝廷)の権力を回復するために討幕しようとするのです。
そして承久3年(1221年)の承久の乱。本来「朝敵」であるはずの鎌倉幕府軍にあっけなく敗北、朝廷が朝敵に倒されるという類を見ない歴史的事件でした。これをきっかけに朝廷は力を失い、幕府の権力は盤石なものになりました。
その後、再び朝廷のチャンスが訪れます。鎌倉幕府が倒れた際、後醍醐天皇は「建武の新政」を行って天皇親政をめざしました。しかし、足利尊氏と対立。天皇を中心とした古代のような政策は武家の反発を招いたのです。
そういうわけで、後醍醐天皇が理想とした親政もわずか2年半で崩壊してしまいました。
幕府政権下での朝廷の役割は?
国の政治を幕府が行っているからといって、朝廷はただ京都にあるだけで何もしていなかったわけではありません。以下のような権能は有していました。- 年号の制定
- 官位授与
- 朝敵(※文字どおり朝廷の敵の意。)の指定
室町幕府3代将軍・義満の時代には京都の警察的な存在「検非違使」の勢力も衰退し、京都警固の任務は幕府の侍所が担うようになっていくなど、朝廷の役割はどんどん幕府に奪われていったようにも思われますが、大事な官位授与などはそのまま朝廷が担っていました。
それも当然、幕府の長である征夷大将軍は朝廷の任命がなければ存在できません。朝廷の機能が低下した部分を幕府が補う形だったようです。
なぜ朝廷は滅びなかったのか?
これだけ武家政権にしてやられたところを見ると、いつ朝廷が滅んでもおかしくなかったように思えますよね。幕府は明らかに朝廷よりも軍事力があり、武力をもって倒そうと思えばできないことはなかった。しかし、それでも朝廷が続いていたのはなぜでしょう?単純に「こうだったから」とひとつの理由だけで語ることはできませんが、簡単にいうと、朝廷のトップである天皇の権威が「存在すること」に意味があったと考えられます。
現代まで続く天皇、今では「象徴天皇」として存在しますが、古くから象徴的意味合いは強かったのではないでしょうか。武家政権が立つ以前も天皇以上に力を持って国を牛耳っていた貴族たちもいるわけで、彼らに取って代わられてもおかしくなかった。それでも滅ぼされなかったのは、そうするメリットがなかったからではないでしょうか。
貴族たちは天皇を補佐し、外戚として政治を行うことで権力を持っていた。そして武家政権では、朝廷から征夷大将軍に任命されることで国のリーダーになることができたわけです。
朝廷というのはまさに「揺るぎない権威」であり、不動。その存在があるからこそ幕府も地位を保てたのです。もちろん、朝廷がなくても国の頂点に立つことはできるでしょうが、それこそ中央がなく豪族たちが力を求めて争っていた時代に逆戻り。
こんなふうに例えるのはよくないかもしれませんが、朝廷の存在はフランスワインでいうところのメドックの格付け、スポーツでいうところのオリンピックみたいなものです。格付けで一級になるから価値が生まれ、オリンピックで金メダルを獲る実力だからすごい。将軍職も、朝廷から任命されるから価値があり、すごいのです。
こんなふうに、ときどき幕府に不満を持ち朝廷の力を取り戻そうと考えつつも、持ちつ持たれつの関係で成り立っていました。
【主な参考文献】
- 『歴史REAL足利将軍15代』(洋泉社、2018年)
- 早島大祐『室町幕府論』(講談社、2010年)
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