北条義時や泰時が就いた「執権」とはどのような立場だったのか

「執権」と北条義時のイメージイラスト
「執権」と北条義時のイメージイラスト
執権(しっけん)とは鎌倉殿(将軍)の補佐役であり、幕政を統括する役職のことです。北条時政を初代として、歴代の北条氏がこの職を世襲しました。旧来、北条氏は執権の立場から将軍権力を抑え、幕府政治を掌握したとされましたが、近年の研究ではこうした権力簒奪のような見方は見直されつつあります。

今回は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれるであろう時期に焦点を絞り、時政・義時・泰時時代の執権について詳しく見ていきましょう。

執権のはじまり

そもそも執権とは

まずは形式的なところから見ていきましょう。冒頭でも述べた通り、執権は鎌倉殿の補佐役です。鎌倉幕府には、一般政務や財政を行う政所(まんどころ)があり、その別当(べっとう、長官のこと)のうち1人が執権に任命されました。幕府において、将軍に次ぐ事実上のNo.2と言ってよいでしょう。

とはいえ、元々幕府内に「執権」という役職があったわけではありません。そのはじまりは、初期の鎌倉幕府で北条時政が築いた立場に求められます。

初代執権・北条時政

時政が幕府内で権力を握る大きなきっかけとなったのが、比企能員(ひきよしかず)の変です。

能員は源頼家が将軍に就任すると、その外戚として権威を振るいはじめます。が、これと対立を深めた時政は、建仁3(1203)年、頼家が病に倒れた隙を突いて能員を暗殺してしまうのです。

頼朝の乳母・比企尼の猶子となった縁から頼朝に重用され、頼家の乳母夫も務めた比企能員。鎌倉殿の13人のひとり。
頼朝の乳母・比企尼の猶子となった縁から頼朝に重用され、頼家の乳母夫も務めた比企能員。鎌倉殿の13人のひとり。

時政は頼家を将軍の座から降ろすと、新たに頼家の弟である源実朝を立て、自らは大江広元と並んで政所別当となりました。

時政は実朝の下、自らが単独署名した幕府の命令書を発行するようになります。「執権政治」のはじまりです。ただ、上述の通りこのころには執権という制度がなかったので、時政のこの立場は「将軍政務の後見」だったと考えられています。

時政はなぜ初代執権になれたのか

ライバルの能員に対して、時政は暗殺という過激な手段を講じました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』では、上記の変の原因を「頼家と能員による時政追討の陰謀があったからだ」としています。

能員の増長を時政が防いだかのように描かれていますが、同時代を生きた僧・慈円が書いた歴史書『愚管抄』では、これを北条氏の反乱だと言い切っています。記述の食い違いからも、変の背後にかなり血生臭い権力争いがあったことが予想されます。

とはいえ時政は、源平合戦のころから各種事務や京との人脈を活かした人事など様々な業務をこなし、幕府の成立後も自らの権力拡大と支持勢力の獲得に奔走していました。時政が幕政を掌握するに堪える実力者であったことは間違いありません。

時政から義時へ

時政の失脚と義時の執権就任

比企氏に続き、有力御家人の畠山重忠を排除したことで、北条氏は武蔵国の実質的な支配権を手に入れました(畠山重忠の乱)。これによりさらに力を増した時政でしたが、元久2(1205)年に起こった牧氏の変で失脚してしまいます。執権の地位は息子の義時へと引き継がれました。

義時は建暦3(1213)年に和田義盛を滅ぼすと(和田合戦)、義盛が就いていた侍所別当の地位を引き継ぎます。政所(政務)と侍所(軍事)の両長官を兼任した義時の政治的地位はさらに強化されました。以降、義時が確立したこの地位は、北条氏によって世襲されることになります。

3代将軍・実朝の暗殺

政務に意欲的な将軍・実朝を、義時は大江広元と共にサポートに的確にサポートしました。しかし、そんな実朝を悲劇が襲います。建保7(1219)年に甥の公暁(くぎょう、こうぎょう)によって暗殺されてしまうのです。

義時は、子のいない実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を望みますが、実朝暗殺で幕府への不信感を増した上皇はこれを拒否します。そのため、幕府は摂関家の子・三寅(みとら、後の藤原頼経)を新たな将軍候補として迎え入れました。

実質的な鎌倉殿となった北条政子とそれを支える執権義時

鎌倉へやって来た三寅はわずか2歳。とても政務などできません。そのため三寅が十分に育つまで、幕府政治を主導したのが初代将軍・源頼朝の後家である北条政子でした。

幕政は義時や大江広元らによる評議を経て、政子が最終判断を下す形で運営され、実質的な4代将軍(鎌倉殿)として政務を執る政子を、義時は執権として的確に補佐しました。

義時から泰時へ

義時の死と泰時・時房の執権就任

元仁元(1224)年に義時が死去すると、承久の乱の戦後処理(六波羅探題)のため在京していた泰時(義時の子)と時房(義時弟)が鎌倉へと呼び戻されました。

政子から「鎌倉殿の補佐」を命じられた2人は、共に執権に就任、以来、執権には2人が就くことになりました。(政子没後に泰時が改めて時房を連署に任命したという説もあります)。

この2人目の執権のことを「連署(れんしょ)」と呼びます。

執権と連署の関係

泰時・時房以来、執権には得宗家(とくそうけ、時政を祖とする嫡流)や有力庶流出身者が、連署にはその他の庶流出身者が就任しました。

執権の補佐役という立場上、連署は執権より下位であるかようなイメージがありますが、それは誤りです。例えば時房は泰時にも負けないほど高い政治的立場にあり、経験や力量では泰時を上回るものがありました。

そのため、執権と連署の関係は「若く経験の少ない執権を、政治的力量のある連署が補佐する」ものであったと考えられています。執権と連署に上下関係はなく、連署はもう1人の執権として幕政運営に必要不可欠な存在だったのです。

おわりに

時政が形を示し、義時が基礎を築き、泰時が確立した執権政治。元々鎌倉殿の補佐役としての執権が、幕府内に制度として存在したわけではありません。

これまで見てきたように、初期の鎌倉幕府では様々な事件が発生し、幾度も幕府存続の危機に見舞われました。時政や義時は、手探り状態で問題解決に奔走し、「執権の立場」に行きついたのでしょう。執権の成立は、幕府権力存続のために、北条氏にあれこれ模索した結果と言えるのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 平雅行編『中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻 公武権力の変容と仏教界』(
    清文堂出版、2014年)
  • 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
  • 田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版、2021年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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