「中原親能」幕府と朝廷の交渉役として活躍した官僚で、鎌倉殿の13人のひとり

「中原親能(大河では演:川島潤哉)」のイラスト
「中原親能(大河では演:川島潤哉)」のイラスト
中原親能(なかはら ちかよし)は鎌倉殿の13人(十三人の合議制)の一人にあたり、相模国で育ちました。

同地で流人時代の源頼朝と交流があったことから、頼朝挙兵の早い時期から頼朝のもとへ馳せ参じ、以後側近として活躍しました。頼朝に仕える以前に中納言源雅頼の家人をしていたこともあり、幕府では主に鎌倉と公家との間の交渉を担いました。

親能の出自

中原親能は康治2(1143)年に生まれました。出自については諸説あります。『大友家文書録』によれば参議藤原光能(ふじわらのみつよし)が実父であったものの、母が前明法博士中原広季(なかはらひろすえ)の女であった関係からこの外祖父・広季の養子となって中原氏を称するようになったとか。

一方『尊卑分脈』は中原広季の子とし、親能と同じく幕府の官僚として活躍する大江(中原)広元と兄弟であったとしています。これについては広元の出自も複数説あるので、実際に兄弟であったかどうかははっきりしません。

なお、文治4(1188)年以降は中原から藤原姓に改めています。

源雅頼の家人から頼朝側近へ

九条兼実の日記『玉葉』によれば、親能は相模国(現在の神奈川県)武士・波多野経家に養育されていたため、流人時代の源頼朝と長年交流があったようです。

幕政に加わる前の親能は村上源氏の中納言源雅頼の家人で、雅頼の子・兼忠の乳母(波多野経家の娘)を妻としていました。頼朝が挙兵した治承4(1180)年には雅頼の家人として在京していましたが、頼朝の挙兵を知って関東へ下り、以後頼朝の側近として活躍するようになったといわれます。実際に頼朝の側近としての親能の記録がわかるのは、『玉葉』寿永2(1183)年9月4日の記事です。親能が雅頼に書状を贈って頼朝の使者として上洛すると記されています。

幕府と公家の間の交渉役

同年11月、親能は頼朝の異母弟・義経とともに頼朝の代官として上洛しました。ここでは主に公家との交渉を行っています。その後も京に留まって土肥実平(どひさねひら)とともに平家追討の策謀をめぐらせる、元暦元(1184)年2月16日には後白河院の使いとして頼朝に上洛を促すため鎌倉に下向する、4月には頼朝の平家追討の命を知らせるために再度上洛するなど、都と鎌倉をせわしなく行ったり来たりして活躍しました。

同年、幕府に公文書を扱う公文所(くもんじょ)が設置されると、寄人のひとりに選ばれています。

文治元(1185)年からは頼朝の異母弟・範頼の平家追討軍に加わり、範頼の参謀として各戦で活躍し、のちに転戦の功により頼朝から感状(戦功を讃える文書)が与えられました。

その後は建久2(1191)年正月15日に公事奉行人に任ぜられて頼朝の側近として重用されました。また、戦後もしばしば幕府と公家との連絡役を担って上洛しており、「京都守護」と呼ばれるようになりました。

建久10(1199)年正月13日に頼朝が亡くなって嫡男の頼家が2代将軍になると、親能は宿老で構成された十三人の合議制の一員になっています。

三幡の死

親能は、文治2(1186)年に生まれた頼朝の次女・三幡(さんまん。乙姫とも)の乳母夫でした。

頼朝は征夷大将軍になった後、娘を入内させるべく朝廷の権力者である源通親(みなもとのみちちか)や丹後局に近づき、根回しをしていました。当初は三幡の姉・大姫が入内するはずでしたが、もともと病気がちで、入内工作のため上洛した後に亡くなってしまいました。頼朝は入内を諦められず、今度は次女の三幡を入内させようとし、後鳥羽上皇の女御宣旨を受けるところまでこぎつけました。

しかし頼朝は娘の入内を果たす前に急死。入内工作は続けられましたが、今度は三幡自身が頼朝を追うかのように正治元(1199)年6月30日に病死してしまいました。14歳の若さでした。

6月25日、親能は三幡の危篤の報せを受けて都から鎌倉へ戻り、30日に三幡の死を見届けると悲しみのままに出家し、掃部頭入道寂忍と称しました。『吾妻鏡』によれば、三幡は亀ヶ谷にある親能の邸の持仏堂に埋葬されたようです。

もし三幡があのまま入内して後鳥羽上皇の後宮に入っていれば、親能もまだまだ活躍したのかもしれませんが、この先の親能についての記録はほとんどありません。承元2年(1208)年12月18日に都で亡くなったと伝えられています。享年66歳でした。

大友氏の発展と親能の関係

大友氏は、のちの時代に九州北部で有力な守護大名になった一族です。最盛期の21代目当主・大友宗麟(義鎮)が特に有名です。この大友氏はもともと鎌倉時代初期に相模国の大友郷(現在の神奈川県小田原市)から興りました。初代は幕府の有力御家人であった大友能直(おおともよしなお)。能直が豊後守護として下向して以来、代々子孫が同地に勢力をはりました。

この能直の出自には諸説あり、『大友家文書録』では頼朝の庶子とされていますが、相模国の古庄郷司(ふるしょうごうじ)の近藤能成(こんどうよししげ)の子であったという説もあり、こちらが通説となっています。母は相模国の武士・波多野経家の女。親能の妻とは姉妹にあたります。その関係から能直はおじの親能の養子となり、母方の所領であった大友郷の郷司職を相続したようです。

もともと養父・親能が鎮西奉行に就任した、豊後国・庇護国・筑後国守護職に補任されていたという説があります。確証はないものの、親能は鎮西に多くの所領所職を持っていました。これが養子の能直に譲られたと考えると、親能は大友氏の発展に関係していた、といえるかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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