丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

信長に天下の夢を見させた山城!「岐阜城」の歴史をサックリ解説!!

  • お城
 2018/01/01
岐阜城(稲葉山城)の復興天守
岐阜城(稲葉山城)の復興天守

「一国一城の主」という言葉があるように、城はその国と統治者の存在を世に知らしめる、ひとつのシンボルでもありました。 一方で、本来は軍事的な要塞としての機能を持っており、その城の能力次第でパワーバランスを左右するほどの影響力を有していました。

一般に「お城」といえば壮麗な天守閣のそびえる、いわゆる「近世城郭」をイメージするかもしれません。 しかし戦国末期までの城といえば、自然地形を利用して、天然の山岳や丘陵を要塞化した「山城」が圧倒的に多かったといいます。

見晴らしのよい高台からの索敵能力、急峻な傾斜地や堀切などによる防御能力、高度の優位性による攻撃力……これらを兼ね備えた山城は、強力な拠点として機能していました。 その反面、重要な攻略目標として激戦にさらされることも多く、その城を落とすことそのものに大きな意味合いをもつ場合が少なくありませんでした。

そのように象徴的な位置づけをされた山城のひとつが、「岐阜城」です。

「岐阜城」は東西交通の要衝であった美濃の地で中心的な役割を果たしてきた城であり、かの織田信長も城主となった時期がある名城です。

今回は、そんな岐阜城の歴史をかいつまんで見ていくことにしましょう。
(文=帯刀コロク)

岐阜城とは

岐阜城は現在の岐阜県岐阜市、「金華山」に設けられた山城です。

金華山は旧名を「稲葉山」といい、岐阜城もかつては「稲葉山城」などと呼ばれていました。

金華山(稲葉山)の頂上に立つ岐阜城(稲葉山城)
金華山(稲葉山)の頂上に立つ岐阜城(稲葉山城)

詳細は不明ながら要塞としては建仁元(1201)年、鎌倉幕府の政所執事などを務めた公家「二階堂行政」が砦を築いたことに始まるという説があります。

以後100年ほどは代々受け継がれていきましたが、鎌倉時代中期に一旦廃城となります。

次にその名が歴史に浮かび上がるのは15世紀半ばの室町時代で、美濃国の守護代を務めた「斎藤利永」が居城として修復したと伝わっています。

稲葉山城(岐阜城)の位置

それからまた100年ほども後の大永5(1525)年、斎藤氏は家臣であった小守護代の「長井長弘」らの攻撃を受け、稲葉山城を追われることになります。

この時、長井氏の配下にいたのが斎藤道三(利政)の父である「長井新左衛門尉」で、次々と主家にとって代わり下剋上を果たしてきたことが知られています。

斉藤道三の肖像画
斉藤道三の肖像画(常在寺蔵)。近年の研究で、美濃の下剋上は父と二人で成し遂げた、との見解。

やがて稲葉山城主となった道三が斎藤家の名跡を継ぎ、本来の守護である「土岐氏」を放逐して美濃の支配者となるのは周知のとおりです。

次いで嫡男の「斎藤義龍」、その子の「斎藤龍興」と稲葉山城は受け継がれていきますが、龍興の代では「織田信長」の侵攻を受けたり、「竹中半兵衛」らの家臣が反発したことで一時占拠されたりするなどの事態を招きます。

一度は織田軍の攻撃を退けた稲葉山城でしたが、永禄10(1567)年にはついに信長によって陥落します。

一説には、「井口」と呼ばれていた稲葉山城下を中国の故事にならって「岐阜」と改名したのが信長であるとされています。 信長は斎藤道三時代の縄張りを変更、稲葉山城を改修して小牧山城から拠点を移し、自身の居城としました。

次には信長嫡男の「織田信忠」が城主となりますが、天正10(1582)年本能寺の変後は斎藤道三子息の「斎藤利堯(としたか)」が岐阜城を掌握します。しかし間もなく明智光秀の敗北に連座して降伏、信長三男の「織田信孝」が城主の座に収まります。

その信孝も翌年には織田家中の権力争い(柴田勝家 vs 羽柴秀吉)で秀吉に敗れて討死。以降は「池田元助」「池田照政」「豊臣秀勝」らが城主を務めました。

最後の岐阜城主は信長嫡孫の「織田秀信」で、慶長5(1600)年関ケ原合戦の前哨戦において敗北。これを機に「徳川家康」によって岐阜城は廃城となりました。

現在金華山山頂にそびえる城は、昭和31(1956)年に建てられた二代目の復興天守となっています。

実は5回の落城経験!

長良川に沿った交通の要衝に立地し、標高約330メートルの金華山を要塞化した岐阜城は、「難攻不落」と呼ぶにふさわしい威容を誇っています。

しかしその一方で、重要な拠点であり続けたために攻略目標として激戦にさらされる運命にもありました。 その証拠に、長い歴史の中で通算5回も落城の憂き目に遭っているのです。

一度目は守護代・美濃斎藤氏の時代、ちょうど斎藤道三の父・新左衛門尉とその主君・長井長弘が「斎藤利茂」に取って代わったとき。

二度・三度目は道三の孫にあたる龍興が、家臣・竹中半兵衛の反発にあい、信長に攻められたとき。

四度目は織田信孝が家中の争いに敗れたとき。

そして五度目は西軍についた織田秀信が、関ケ原合戦直前の「岐阜城の戦い」で敗北したとき。

このように、あたかも「下剋上」の縮図ででもあるかのような落城の歴史が刻まれています。

信長による二つの「テンシュ」

岐阜城には信長の時代、「テンシュ」と呼ばれる二つの建造物があったことが記録されています。 麓の御殿は「天主」、そして山頂の施設は「天守」としたとされています。

意外なことに、歴史を通じて天守は実用的な空間ではなかったと考えられており、居住スペースとして使用したのは信長や秀吉などのわずかな例に限られるといいます。

岐阜城には宣教師の「ルイス・フロイス」や、公卿の「山科言継」らが訪れており、饗応を受けた際に険しい道を登ったことの大変さが伝えられています。

円徳寺所蔵の岐阜城図
円徳寺所蔵の岐阜城図

信長は「安土城」の例にもあるように、実際に天守で居住したとされています。 岐阜城にも同様の設備があったと考えられ、城や街づくりに対する信長のこだわりを垣間見ることができるでしょう。

まとめ:「天下」を射程に入れた、「見せる城」

岐阜城は南に尾張、西に近江を望み、琵琶湖を超えてその先の京へと至る重要拠点に位置しています。 殊に信長はこの城に拠点を移した頃から、有名な「天下布武」の印章を用いていることが知られています。

当時の「天下」とは、日本全国ではなく、畿内周辺のことを指し、信長は岐阜城を足掛かりに天下への地歩を固めていったといえるでしょう。

一方で、堅固な要塞ながら岐阜城山頂部は決して広大ではなく、最終的な防衛拠点というわけではなかったようです。 むしろ平野部から仰ぎ見る天守と城の威容に、武将としての勢力・権威を誇示する「見せる城」としての機能も重要視されたと考えられています。

信長は岐阜城から京の方角を眺め、天下に思いを馳せたのではなかったでしょうか。


【参考文献】
  • 「岐阜城の空間認知~文献・絵図・考古資料を用いて~」『金大考古 64』 内堀信雄 2009
  • 『岡崎市史.別巻上巻』 岡崎市 1935
  • 『岐阜市史』 岐阜市 編 1928


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

該当カテゴリと関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP