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【やさしい歴史用語解説】「参勤交代」
- 2022/04/18
ちなみに江戸へ向かうことを「参勤」、逆に領国に戻ることを「交代」といいました。いわば他の大名の参勤と交代するという意味になるでしょうか。
元来は諸大名が自主的に江戸へ参勤したことが始まりですが、3代将軍・徳川家光が出した「武家諸法度寛永令」によって、いよいよ諸大名に義務付けられます。当初の参勤交代は外様大名のみがおこなっていましたが、寛永19年(1642)になると譜代大名にも適用されました。
参勤交代は原則として1年おきにおこなわれ、1年国元で過ごせば江戸へ参勤。そして江戸で1年経過すれば交代で国元へ戻ります。ただし遠隔地にある藩の場合、それなりに配慮されていました。海を隔てた対馬藩は3年に1度、北海道の松前藩などは5年に1度という長いスパンだったようです。
しかしながら関東地方にいる譜代大名が「江戸に近くで楽だ」というわけではありません。実際には半年に1度という短い期間で参勤交代が義務付けられていました。
逆に参勤交代が免除されていたケースもあります。老中など重要な職にある大名、水戸徳川家などが該当しますが、常に江戸で滞在することが求められたため、国元へ戻れないというデメリットがあったようです。
その他、飢饉や災害など国元が大変な時には参勤交代を免除される場合もありましたし、江戸中期以降になると、分家によって小さな大名となった藩主も参勤交代を免れています。
大きい藩になればなるほど威厳を示す必要があるため、行列は華美になる傾向にありました。加賀前田家の場合、1回の参勤で7億円もの費用が掛かったこともあったようです。
また、江戸で1年を過ごすわけですが、大都市での生活もまたお金が掛かるもの。国元からの送金では足りなくなって、大商人に借金することもたびたびだったとか。
だからといって参勤交代を拒否するわけにはいきません。もし違反すれば苛酷な処罰が待っていました。例えば福井藩主の松平忠直は病気を理由に江戸出府を断りますが、すぐさま改易されて豊後へ流罪となっています。
また、盛岡藩主だった南部重直も江戸への到着が10日遅れただけで、2年もの間、江戸で蟄居処分を受けました。
しかしながら、江戸が大きく繫栄したのは参勤交代のおかげだったという面もあります。全国の半分にあたる大名が江戸で滞在するわけですから、その経済効果は非常に大きいものでしょう。こうして江戸は世界有数の経済都市となったのです。
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