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【やさしい歴史用語解説】「代官」

明石則実
 2022/11/22
時代劇といえば「悪代官」が付き物ですよね。私利私欲のために賄賂を受け取ったり、無実の庶民をいじめてみたりなど、とかく悪いイメージが付きまといます。ところで「代官(だいかん)」とはそんなに嫌われる存在だったのでしょうか?今回は代官にはどんな役目があったのか?解説していきたいと思います。

「代官」という言葉は鎌倉時代から現れますが、それ以前は国司が任地に赴任しない代わりに、支配のため私設に設けた役目でした。これを「目代」とか「眼代」と呼びます。

平安時代は武士団が各地で興ったこともあり、軍事実務と文書作成能力に優れた人物が登用されたようです。

平時忠の命により伊豆目代となった山木兼隆(wikipediaより)
平時忠の命により伊豆目代となった山木兼隆(wikipediaより)

鎌倉時代に入ると、多くの御家人が守護・地頭となって各地へ派遣され、武士による直接支配が進んでいきます。また税の徴収や軍勢催促を効率的に行うため、守護・地頭たちは支配地へ代官を設置するようになりました。

中には許しもなく代官を何人も派遣したり、思うがままに税を取り立てる者がいたため、「御成敗式目」では代官を一人しか任命してはならないと取り決めています。

やがて室町~戦国時代になると、代官の役目は地方役人としての意味合いを帯びてきます。例えば関東地方を領した北条氏ですと、とにかく領国が広大です。一円支配するためには各地へ代官を派遣しておく必要がありました。もちろん地域行政や税の徴収といった仕事の他に、農民たちの慰撫という役目も負っています。とにかく農民が不満を持たぬよう気を使っていた一面がうかがえるのです。

ちなみに北条氏の重臣だった松田憲秀は、山口郷佐衛門という者を代官として遣わした際、「不満を持った百姓が逃亡しないよう注意せよ」という内容の判物を出しています。
北条氏は民政に気を配った大名として知られていますから、地域の安寧には特に留意していたのでしょう。

また領内に支城が散らばるように存在していた時代ですから、日常的な城のメンテナンスも領民の大きな役割となっていたようです。代官はメンテのスケジュールを管理しつつ、村ごとに役割分担を決めていました。

江戸時代になると、代官の意味も様変わりします。基本的には天領(幕府直轄地)もしくは藩の飛び地や遠隔地に代官が派遣されました。

大森代官所跡(wikipediaより)
大森代官所跡(wikipediaより)
享保の飢饉の際、貧民救済に力を尽くした代官・井戸正明(wikipediaより)
享保の飢饉の際、貧民救済に力を尽くした代官・井戸正明(wikipediaより)

なにしろ天領は全国に400万石以上ありますから、平均して40名程度の代官が赴任していたようです。さらに代官の上には「郡代」がいて、関東・美濃・飛騨・西国それぞれに4人が任命されました。

代官や郡代になれるのは御目見得以上の旗本に限られ、代官で5~10万石、郡代で10万石以上の格式があったとされています。

もちろん地方行政を司る仕事となりますが、悪徳商人と結びついて私利私欲を貪るという美味しい役目ではありません。常に各地を巡察しなければいけませんし、治水や農地開墾、あるいは訴訟問題を取り扱うこともありました。それを陣屋に詰める必要最低限の人数でこなすため、大変な激務だったようです。

もし失敗すれば首が飛びますし、百姓一揆が起きようものなら武士生命を絶たれる可能性だってあります。そのため旗本の間では「代官職は左遷を意味するもの」と受け取る者もいました。

それでも飛騨郡代となった大原正純のように、御用金を着服する不届き者がいましたから、やはり悪代官もそれなりにいたのではないでしょうか。

  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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