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【やさしい歴史用語解説】「曲輪」
- 2023/06/26
お城でもっとも重要な部分が「曲輪(くるわ)」です。「郭」とも書きますが、最近の城郭研究の世界では「郭」を用いることが多いそうです。簡単に言えば、城を築城する際、陣地や屋敷を設けるために造られた "平場" のことを指します。区画した区域として、柵や土塁で囲うことで防御力を高めていました。
初期の城郭では自然地形を利用したり、簡単な土木工事で済ませるケースも多かったのですが、戦いが恒常化してくると複雑で高度な築城技術が発達してきます。
例えば山城を築城する際には、斜面を平たく削って余った土を土塁として積み上げたり、曲輪を造成する時には周囲を削り込み、直角に近い切岸に仕上げるという工夫が見られました。
また便宜的に曲輪のことを「段」と呼ぶケースもあります。これは山城に多いもので、ちょうど曲輪が階段状に連なっていることから名付けられました。ちなみに長宗我部氏の居城だった岡豊城では、「二の段」や「三の段」といった名称となっていますし、岡山城ですと山麓沿いに「中の段」「下の段」が広がっていました。
曲輪の配置については一定のルールがあったようです。一般的には「本丸(本曲輪または主郭)」を中心に置き、大手方面に対して守備力を固めるような配置になっていました。また山城ですと山頂部に本丸が置かれることが多かったようです。
各曲輪の呼び方や名称については、曲輪の使い方や目的・位置などによって便宜的に付けられていました。基本的に本丸に近いほうから「二の丸」・「三の丸」と呼びますし、その方角から「西の丸」や「北の丸」という呼び方もされたりしています。「井戸曲輪」や「厩曲輪」のように、その使用用途から名付けられた曲輪もありました。
また観音寺城の「三井丸」や「後藤丸」、小谷城の「京極丸」や「赤尾屋敷」などのように人名を曲輪名とするパターンもあります。
やがて戦国時代も後半になると、惣構(そうがまえ)を持つ巨大な城が登場します。それは城下町も含めた構造になっていて、堀や石垣、あるいは土塁ですっぽりと囲い込んだ城郭都市と呼べるものでした。城の中心的な部分を内郭(内曲輪)とし、家臣や領民が居住する城下部分のことを外郭(外曲輪)と呼んでいます。
このような構造を持つ城は意外に多く、江戸城をはじめ大坂城・姫路城・小田原城などが代表例となっています。
江戸時代になると、曲輪ではなく、一般的に「丸」という名称が使われることになりました。これは当時流行した軍学に端を発し、「曲輪とは丸く造るものである」という教えが広まったからです。円形は面積が広いうえに外周が短いので、守るには有利だと考えられていました。
しかし幕末になって新しい築城術が入ってくると、五稜郭や龍岡城をはじめとした西洋式城郭が各地に築かれ、曲輪構成を中心に考えられた従来の城は、一気に陳腐化していくのです。
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