徳川家康所用の甲冑をご紹介!頭巾型、シダの兜など…

 日本史上、武家による最長の政権となった江戸幕府を樹立した、徳川家康。信長・秀吉に並ぶ「三英傑」の一人に数えられ、その武将としての、あるいは政治家としての手腕は特に海外からの評価が高いことでも知られています。

 どちらかというと老獪な戦略家というイメージが強いのではないでしょうか。確かに幼少時からの人質生活や、諸国との危ういパワーバランスを切り抜けてきた経験に裏打ちされた、卓越した外交感覚の持ち主であったことは疑いようもありません。

 その一方で、家康はその人生の大半を戦場で過ごしたといっても過言ではない、生粋の戦士でした。将であるにも関わらず、新陰流など武術の鍛錬にも余念がなかったことは有名で、自身が闘うことをも常に忘れなかった戦国の男だったのです。

 そんな家康ですので、その甲冑にも武将らしい願いや、歴戦の証が刻み込まれています。本コラムでは、彼の代表的な甲冑2領を取り上げ、その概要をご紹介したいと思います!

「歯朶具足(伊予札黒糸威胴丸具足)」

 家康の鎧、といえばこれをイメージされる方も多いのではないでしょうか。兜前面に設けられる飾りである「前立(まえたて)」が、歯朶(シダ)の葉を象っていることから「歯朶具足」の愛称で親しまれています。

徳川家康所用「歯朶具足」(出所:刀剣ワールド)
徳川家康所用「歯朶具足」(出所:刀剣ワールド

 家康はこの鎧に殊のほか愛着があったようで、関ヶ原の合戦や大坂の陣にも携行したほか、同様のものを別誂えして奈良県の神社に奉納したことが知られています。

 もっとも有名な久能山東照宮が所蔵するものは、兜の形に大きな特徴があります。「頭巾形(ずきんなり)」といって、その名の通り頭巾をモチーフにしたものですが、それも「大黒さま」で知られる「大黒天」の頭巾を表現しているといいます。

 関ヶ原の合戦前、家康の夢に大黒天が現れたことに因むといいますが、元々は福神ではなく古代インドの魔神であり、戦の神としても信仰されていました。

 歯朶の前立に関しても、単なるシダというよりは注連縄や正月飾りなどに使われる「裏白(ウラジロ)」と考えるのが自然でしょう。神聖な行事ごとに用いられるほか、葉の裏が白いことから「二心がない」という真心を表すなど、武将にとって縁起のよい植物でもあります。

 ところが、共に伝承されているこの前立と兜ですが、兜にアタッチメントとなる金具がないため、取り付けることができないのです。家康が残した謎のひとつですね。

 鎧本体の造りは全体に渋く、「伊予札(いよざね)を黒糸で綴り合わせた、胴丸タイプの鎧」という意味になります。鎧には、「小札(こざね)」と呼ばれる小さな長方形の鉄板を、いくつもつなぎ合わせて成形したものがあります。

 「伊予札」とは伊予(現在の愛媛県あたり)の鎧職人が考案した小札のことで、糸で綴じるための穴が部材の端の方にあるため、全体の部品(小札)数を減らせるというメリットがありました。

 「胴丸」とは室町時代までによく使われた鎧で、元は軽装歩兵の防具を徐々に上級武士も用いるようになったものです。右脇が開くようになっており、そこから装着することが一般的だったようです。

 家康を象徴する鎧ともいえる証として、四代将軍・家綱以降は正月行事である「具足開き」の折には、この鎧のレプリカを飾って初代の偉業を偲んだと伝わっています。現在では、久能山東照宮が歴代将軍の甲冑と共に保管しています。

「金陀美具足」

 さきほどの歯朶具足が晩年の家康を象徴する鎧だとすると、青年期を象徴するのが「金陀美(きんだみ)具足」でしょう。これも大変有名ですが、その名の通り全身に施された箔押しで黄金色に輝くという、一見きらびやかな甲冑です。

徳川家康所用「金陀美具足」(出所:刀剣ワールド)
徳川家康所用「金陀美具足」(出所:刀剣ワールド

 これは永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」における前哨戦のひとつ・大高城兵糧入れのとき、敵である織田方に包囲された城への補給作戦を成功させた時に着用したものと伝えられています。

 当時、今川義元の人質として暮らしていた家康は、今川方の将としてこの戦に加わっていたのです。質素倹約・質実剛健のイメージが強い家康としては、豪奢な金色仕立ての甲冑にはギャップを感じるかもしれません。しかし、松平家の嫡男でありながら幼少期より人質としての生活を強いられた家康には、武功に対する強い思いがあったとされています。

 鎧には自身の身を守るという実際の機能の他に、「武者ぶり」を披露するという重大な意味もありました。
特に将たる者としては、そこに指揮官が健在していることを全軍に知らしめて、士気を鼓舞しなくてはならなかったのです。したがって、兜の立物を極端に大きくしたり、きらびやかな拵えを施したりとあえて「目立つ」ことも必要とされていました。

 家康の金陀美具足もまさしくそういった目的にかなうものであり、また、今川氏の人質ながら本来であれば一国一城の主の血筋であるという、気概をも示したのではないでしょうか。当時の家康はまだ10代の後半で、鎧の造りからは引き締まった体型をしていたことをうかがわせます。

 金色というのもまばゆいものではなく、むしろ落ち着きのあるシックな風情をもってまとめられています。贅沢なようにみえつつ、それでいて精悍であるという、若き日の家康の静かな闘志を感じさせる甲冑です。
これもまた、久能山東照宮が所蔵しています。

甲冑にみる、将たる者の役割

 家康という天下人の、老境と青年期の鎧についての新旧対比でした。この他にも、家康は実にさまざまで個性的な甲冑を残しています。

 その多くは一目でそこに指揮官がいることを周知するような、大ぶりな立物に特徴があります。そんな甲冑の数々からは、「将たる者」としてどうあるべきかという、家康のプライドのようなものが漂ってくるように感じられますが、皆さんはいかがでしょうか。


【主な参考文献】
  • 『完全保存版 甲冑・刀剣のことから合戦の基本まで 戦国武将 武具と戦術』監修 小和田泰経 2015年 枻出版社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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