「旧満洲国探訪 旅順」日露戦争最大の激戦地、街を囲む山々には堅牢に要塞の遺構がいまも残る

日本が執着しつづけた満洲

 2022年2月ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部の親ロ派支配を独立国として承認する大統領令に署名。これによってドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国が誕生した。

 しかし、この両国を承認した国は、ロシアの他にはシリアと北朝鮮の2カ国のみ。世界の大半の国々が、ロシアの傀儡国家として存在を無視した。両国は同年9月にロシアに併合され、約7ヶ月余りでその短い歴史は終わってしまうのだが。

 歴史を紐解いてみると、それと似たような「国」がある。しかも、その建国には日本が大きくかかわっていた。

 日露戦争後、日本陸軍は関東州(遼東半島先端部)と南満州鉄道附属地の守備を任務とする関東軍を編成して満州に派遣していた。その関東軍が1931年9月に満州事変を起こし、満州のほぼ全域を軍事占領してしまう。そして翌年には、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)を国家元首に祀りあげ、満洲国は建国されるのだが。しかし、他国はこれを日本の傀儡政権と見抜いていた。

愛新覚羅 溥儀の肖像(出典:wikipedia)
愛新覚羅 溥儀の肖像(出典:wikipedia)

 1933年の国際連盟総会では、日本の責任を問う勧告案が賛成42票、棄権1票、不参加1票で採決される。反対票を投じたのは日本だけという圧倒的な結果。ドネツク人民共和国やルガンスク人民共和国の場合と同様に、当時の国際社会もまた満洲国を国家として認めなかった。

 それでも日本は満州に執着しつづける。

 「満州は日本の生命線」

 世界恐慌の余波で不況の真っ只中にあった当時の日本では、この言葉が流行語になっていた。満州は日本本土防衛の要地であることにくわえて、広く肥沃な土地と豊かな地下資源がある。これを日本の経済圏に取り込めば不況から脱却できる。と、多くの日本人がそう信じていた。

 日清・日露の戦争で多くの日本軍兵士がこの地で亡くなっている。尊い命の代償として得た満州は、絶対に手放すことはできない。それが、当時の日本人の大多数に共通する感情だった。

激戦地の二〇三高地は木々が青々と繁る自然郷に変貌

 満州で失われた多くの人命が、日本人をこの土地に執着させた。と、するならば……旅順は、日本人の執着が最も強い場所だったのかもしれない。

 1898年に清国から遼東半島の一部を租借したロシアは、その突端部にある天然の良港・旅順を太平洋艦隊の根拠地としていた。

 軍港と市街地は、厚いコンクリートで覆われた堡塁によって幾重にも囲われて要塞化されている。

 「東洋一の大要塞」

 ロシア軍は豪語して防御に絶対の自信を持っていた。

 日本軍は1904年8月19日に旅順要塞の攻略を開始。翌年1月1日にロシア軍が降伏するまでの間に、約1万5000名の兵士が亡くなる日露戦争最大の激戦地となった場所である。

 日露両軍兵士が死闘を繰り広げた要塞の遺構は、現在も史跡として残っている。

 旅順市街地の東側に連なる山岳地帯、二龍山と東鶏冠山を結ぶ要塞線の最高地点・望台にはロシア軍が築いた砲台跡がある。1905年1月1日に日本軍がこの砲台を占領し、ロシア軍も抵抗を諦めて降伏した。つまり、ここが旅順要塞攻略戦における最後の戦いの地ということになる。

 砲台跡にはいまも2門の巨砲が設置され、砲門のところにキリル文字で「1889年製」の刻印が見られる。ロシア軍が実際に使用していたものだ。砲口は日本軍が侵攻してくる東に向けられている。ここから放たれる凄まじい火力を想像すると身が竦む。

 望台の南方、稜線を少し下ったところに東鶏冠山北堡塁がある。空堀や塹壕などが当時のままに保存されていた。堡塁のコンクリートには無数の弾痕が残っている。また、堡塁内部の通路にも所々に激しい破壊の跡が見られる。日本軍の28センチ榴弾砲は厚いコンクリートの壁を粉砕し、要塞内部にいた多くのロシア兵を死傷させた。

堡塁内部の通路
堡塁内部の通路

 望台や東鶏冠山から10kmほど行った旅順市街地の西側には、二〇三高地が聳えている。

 日本軍の旅順攻略の目的は、港内に駐留するロシア太平洋艦隊を無力化することだ。二〇三高地の山頂からは、旅順の街や港を一望に見渡すことができる。ここに着弾観測所を設置すれば、港内のロシア軍艦に対する正確な砲撃が可能となる。

 つまり、難攻不落の旅順要塞を攻略せずとも、二〇三高地さえ奪えば戦略目的を達成できるというわけだ。

 旅順要塞攻略戦が始まってから約3ヶ月、1904年11月になると日本軍の主攻撃目標は要塞本体から二〇三高地に変更された。しかし、ロシア軍もすぐにその意図を察知して防備を固め、こちらでもまた苦戦を強いられた。

 現在の二〇三高地は山頂付近まで道路が通され、クルマで簡単に登ることができるようになっている。

当時の二〇三高地(明治42年発行の、海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』第二巻より。出典:wikipedia)
当時の二〇三高地(明治42年発行の、海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』第二巻より。出典:wikipedia)

 日露戦争当時は身を隠す場所もない禿山だった。ロシア軍は斜面に塹壕を築き、突撃してくる日本兵に機関銃の一斉射撃をくわえる。映画などでよく見たシーンだが、現在の二〇三高地は植林されて山中は青々とした樹木に覆われている。当時とは雰囲気がまったく違う。塹壕も一部を残して、その大半は木々の下に埋もれている。

 日本軍は多くの犠牲を払って二〇三高地を占領した。その後、第三軍司令官・乃木希典大将により、その名を爾霊山と改めている。山頂付近には銃弾を模った兵士たちの慰霊塔があり、戦前に旅順を訪れた日本人は必ずここを訪れて参拝したという。

二〇三高地の慰霊塔
二〇三高地の慰霊塔

 山頂の展望台からは旅順港が見える。この眺めだけは当時と変わらない。湾の隅々まで一望できる。ロシア軍艦は隠れる場所がなく、正確に照準されて巨砲の餌食となる……二〇三高地が占領されたことで、旅順要塞の戦略的価値は失われた。

二〇三高地から見た旅順港
二〇三高地から見た旅順港

 二〇三高地が日本軍に占領されると、ロシア兵たちの士気は落ち、要塞本体の堡塁群も次々に陥落していった。1905年1月1日にはついに、旅順要塞司令官・ステッセル将軍から降伏の申し入れがあり、日露戦争最大の激戦は終結する。

戦前の満州では「住みたい街」のナンバーワン!?

 日露戦争後、ロシアは関東州の租借権を日本に譲渡し、旅順港は日本海軍の根拠地となり、黄海や遼東半島沿岸の海防を担うことになる。また、満州事変が勃発するまでは関東軍司令部も旅順に置かれていた。

旅順の関東軍司令部跡(現在は関東軍旧蹟博物館)
旅順の関東軍司令部跡(現在は関東軍旧蹟博物館)

 〝軍都〟となった旅順には、多くの軍人や軍関係の仕事をする人々が移り住むようになる。1913年の調査によれば日本人口は9114人、戦前の旅順の総人口は4万人程度だったというから、その4分の1が日本人で占められることになる。駐留する軍人まで含めれば、その割合はさらに高くなるだろう。

 現在、大連市旅順区の人口は約26万人といわれ、戦前と比べると街の規模は数倍にもなっている。

 旅順の市街地は、北から南に向かって流れる龍河によって東西に分断されている。西側は戦後に発展して新市街。そして、東側の街並みが戦前からある旧市街だ。

 龍河の畔、市街地の中心には白玉山と呼ばれる標高130メートルの小山がある。旅順要塞攻略戦が終結した後、戦場の遺体を火葬した大量の遺骨が、この山麓に設置した仮納骨堂に収容されていた。戦後は乃木希典と東郷平八郎の発案で山頂に慰霊碑が建立し、これを白玉山塔と命名している。

 白玉山塔は展望塔として利用され現存する。その高さは66.8メートル。小山には分不相応な巨大塔で存在感を誇示している。当時は旧市街のどこからでも眺めることができ、日本人住民には朝夕に手をあわせて拝む者も多かったという。

白玉山塔
白玉山塔

 白玉山塔を仰ぎ見ながら、旧市街地を散策してみよう。

 いまも煉瓦造りの古い建物が随所に残っている。中国風のテイストが濃厚だが、当時は敦賀町や青葉町などと、当時は日本風の町名がつけられていた。

 旧市街のほぼ中心、現在は文化街という名の通りになっている場所には、壁面に「旅社」の看板を掲げた建物がある。戦前からの残る建造物のなかでは比較的大きな3階建。「旅社」は中国語でホテルの意。だが、「賓館」「飯店」などを名乗る高級ホテルと比べるとかなりランクが落ちる。経年劣化が酷く、泊まる気にはなれない。

 現在は低ランクの旅社となっているこのホテルだが、戦前は旅順でも最高級のホテルだったという。

 南満州鉄道は沿線各地で最上級の設備を誇るヤマトホテルを経営していた。ここも旅順ヤマトホテルを名乗り、与謝野晶子・鉄幹夫妻、後に満洲国皇帝となる愛新覚羅溥儀など多くの有名人が宿泊している。夏目漱石も旅順に滞在した時にはここに泊まり、当時のホテル内の様子がその著書『満韓ところどころ』で詳しく描かれている。

 また、川島芳子がモンゴル族の軍人カンジュルジャップと結婚式を挙げたのも旅順ヤマトホテルだった。

 川島芳子は清朝皇族・粛親王善耆の娘だが、満蒙独立運動に加担した政治活動家・川島浪速の養女となり日本人として育てられた。カンジュルジャップとの結婚生活が1年余りで破綻した後、満州事変や満洲国建国にかかわって関東軍のスパイとして暗躍するようになる。マスコミには「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」などともてはやされ、宝塚のスターように憧れる女学生も多かったとか。

 旅順ヤマトホテルからほど近い、新華大街という通りには川島芳子が暮らした旧邸が現存する。もともとはロシア人が経営していたホテルだったという。清朝末期に彼女は家族に伴われて北京から旅順に移り、ここで暮らすようになった。

旅順にある川島芳子旧邸
旅順にある川島芳子旧邸

 川島家の養女となり日本で暮らすようになってからも、実家であるこの屋敷を頻繁に訪問している。また、終戦後は中国軍に逮捕されて北京へ移送される1948年まで、旅順に戻ってこの屋敷で暮らしていた。彼女が旅順にやってきたのは5歳の時、人生で最も幸福だった少女時代をこの街で過ごした。心癒される故郷だったのかもしれない。

 満州で暮らす多くの日本居留民にとっても、旅順は憧れの地だった。現代ならば「住みたい街ナンバーワン」といったところか。この街は満州では最も温暖なうえに、夏も涼しく住み心地が良い。内陸部では貴重な海産物もふんだんにある。

 満州の表玄関である大都市の大連にも近く、当時は南満州鉄道が1日 8 便の列車を運行して所要1時間30分で2都市を結んでいた。週末になると大連方面から多くの行楽客が訪れたという。

旅順駅
旅順駅

「地中海のニース・モナコ、或いは鎌倉、須磨、逗子に勝るとも断じて劣らぬ極東唯一の、一大避暑地として世界にその名を轟かすべき運命をもつとさへ言はれている」

 満洲国建国後の1933年に南満州鉄道が発行した観光パンフレットでは、このように旅順が紹介されている。

 しかし、自信満々に喧伝するこの文面も、その後の歴史を知る我々には儚く感じてしまう。日本人にとってのパラダイスは、それから10年ほど過ぎた頃には消滅してしまうのだから……。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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