上杉謙信の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介

戦ヒス編集部
 2018/01/03
カード上杉謙信

軍神の異名をもち、川中島の戦いでライバルの武田信玄と死闘を繰り広げた上杉謙信。毘沙門天を信仰していることでも有名ですね。

本記事では主に『名将言行録』や『常山紀談』などの後世の編纂物をもとにして、LINE風の対話形式で上杉謙信のいくつかのエピソードを再現してみました。内容の信ぴょう性はともかく、謙信の人柄がなんとなく伝わりましたら幸いです。

まさに蛟竜(1547年)

※『名将言行録』より

天文16年(1547年)、長尾政景が栃尾城(とちおじょう、新潟県長岡市栃尾)を攻めてきたときのこと。

謙信は櫓に登り、敵をみて言った。

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謙信

今宵、敵は引き返すだろうから、退却の出鼻を狙って討って出よう。

宇佐美定満

敵ははるばる遠方からきておるのですぞ。そんなに早々と引き返すはずもないのでは。一時も早く討って出ましょうぞ!

家臣アイコン
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謙信

うむ。わしが昼から敵をみておると、兵ばかりで兵糧方の小荷駄がないわ。とすれば長陣とは思えぬ。

宇佐美定満

!!・・・それはたしかに殿の仰せの通りですな。

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それならば討って出ようということになり、夜半に敵の退却するところへ切りかかり、見事に敗走させた。謙信はこの機に乗じて追撃を開始すると、宇佐美定満ら家臣も続いて追撃。

敵はついに敗走して米山に逃げ登っていった。謙信もさらに追撃したが・・・

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謙信

眠くなったから、しばらくここで休んでから討って出よう。

宇佐美定満

殿、一体どうしたのですか?いまこの破竹の勢いをもって追撃しましょうぞ!

家臣アイコン
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謙信

ん~眠いわ~~・・・・・

その後も定満はいろいろ意見を言ったが、謙信は聞き入れずに寝てしまった。

家臣ら

家臣A:殿は一体なにをお考えなのじゃ・・。
家臣B:ああ、わが軍ももはやこれまでじゃのう。

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しかし、敵が米山超えで3分の2ほど行ったころ、貝を吹いて戦の合図をしたのだ。

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謙信

皆の者!今こそ討ってでようぞ!わしに続け~~

こうして謙信らは米山へ追い上がってちょうど敵が下り坂にかかるところで追いつき、敵方は坂から追い落とされて、その死者は数え切れないほどになったという。

--その後、定満が家中の者らに向かって話をした。

宇佐美定満

今日、殿が米山坂で眠っていた理由はわかったか?

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家臣ら

家臣A:・・・・・。
家臣B:眠いからではないのか?
家臣C:・・よくわからぬのう。

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宇佐美定満

敵が米山に登っているときに追撃したら、山の高いところから追い返されるじゃろう?
殿は寝たふりをして時期をみはからい、敵が山を下ったところで一気に討って勝利したのじゃ。

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家臣ら

家臣A:!!
家臣B:!!!
家臣C:!!!!

家臣アイコン

宇佐美定満

わしは若いころから幾度となく戦場にでたが、そのように時機をうかがったことは1度もない。しかし、殿は若くして臨機応変に機を狙ったのじゃ。この智恵は軍神の化身としか思えぬことじゃ!

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家臣ら

家臣ら:(ざわざわざわざわ)

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--その後まもなく、政景は降伏して出てきた。そして謙信は越後守護の上杉定実に会い、事の次第を述べたのであった。

定実は謙信のことを、周囲の者に以下のように語ったという。

上杉定実

あれはまさに蛟竜(こうりょう。=姿が変態する竜種の幼生)だ。ひとたび風雲を得た暁には、狭い池の中から飛び立って天空高く舞い上がる者だ。

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謙信はまだ家督も継いでいない18歳のときであった。

信玄の神社焼き討ちの真意を読む(1553年頃?)

※『春日山日記』より

ある日、謙信は武田信玄が村上義清の旧領の神社を焼き討ちしたことについて、近臣たちに語った。

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謙信

信玄は村上義清を攻め倒し、信濃佐久郡・小県郡を手に入れたが、その後に義清の居城の葛尾(埴科郡(はにしな))にも進出して義清の旧領地を視察しておる・・。

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謙信

この旧領地には村上氏が先祖代々氏神として深く信仰する神社があったのだが、信玄は若い手勢を引き連れてこの神社へ赴き、社殿を残らず焼き払い、神木までも切り倒しておる。
全くもってとんでもないことだ。

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謙信

信玄はなぜこんな悪事をはたらいたのか・・。神社・仏閣を焼き尽くすような真似は良将のすべきことではないだろう。神や仏になんの恨みがあるというのか・・。

家臣たち

家臣A:・・・(信玄が非道ということか?)
家臣B:・・・(なにがいいたいのだろう・・)

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謙信

わしが信玄の心をはかるに、村上氏代々の氏神や廟所をそのままにしておけば、村上旧家臣らが今は信玄に屈して配下に属しているが、ときには、この氏神へ参拝することなどあれば、昔のことを思い出して涙し、それが武田家への叛意につながるともかぎらぬ。
その上、村上代々の土民までたびたび氏神へ足を運べば、田舎の百姓といえども、昔を思う心が生じることになるだろう。おそらく信玄は後腐れのないように焼き払ったのであろう。

謙信は信玄の振る舞いについて、このように推察したのであった。

謙信、信玄の用兵について尋ねる(1553年)

※『名将言行録』より

天文22年(1553年)8月、信濃の国人・村上義清が信玄に敗れ、越後へ逃れてきて、謙信に助力を願い出てきた。これは謙信が武田信玄と川中島で初対決をする直前の話である。

--越後国・謙信の居城--

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謙信

さて、信玄の兵の扱いはどのようなものか?

村上義清

ここ10年間、信玄が勝利を取っているが、今は後のことを考えて大事に弓矢を締め取り、軽率なことは一切しない。戦に勝利した後はさらに用心深くなり、十里働くところを三里とか五里までにとどめておいている。

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謙信

・・・・・。
のちの勝利を大切にするということは、国を多く奪おうとする心があるからであろう。わしは国盗りも後の勝利も考えず、目の前の一戦を大切にするのだ。

謙信はそう言い、自ら兵を率いて川中島方面へ出陣した。

謙信、信玄の計略を見抜く(1556年)

※『名将言行録』より

弘治2年(1556年)8月、謙信が信玄と対陣したときの話である。

信玄は馬3頭を放し、その馬たちが謙信の陣所のほうに迫ってきた。

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上杉兵たち

兵士A:む、武田方の陣営から馬が放たれておるぞ!!
兵士B:なら捕えて我が軍の馬としよう!

謙信はこのとき櫓の上で敵陣を監視していたが、馬が放たれたのを見て、家臣の本荘平七を呼んで大声で叫んだ。

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謙信

おい!武田方から馬が放たれてこちらに来るが、かまわずそのままにするように触れを出せ!もしこちらから一人でも出ればその者を処罰すると伝えよ!!

そして、武田の馬が野山を走り回るのが目に入るが、謙信の指示どおり、上杉方の兵は誰も陣から出なかった。

実はこれは信玄の計略であった。信玄は夜のうちに騎馬50騎・足軽300人ほどを草に伏せさせておいて、上杉兵が馬の捕獲にでてきたところを襲いかかって討ち取る手筈であったのである。

武田の伏兵たち

兵士A:・・・(敵方は誰もでてこんのう。)
兵士B:・・・(いつまで隠れておればよいのじゃ。)

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一向にでてこない上杉兵をみて、やがて武田の伏兵たちはむなしく引き上げていった。これに信玄は・・

武田信玄

謙信は実に達者な将じゃ。はかりごとなどでは太刀打ちできぬわ。

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信玄はこのように感服し、陣払いして引き上げたのであった。

大激闘となった第四次合戦で謙信が用いた下策(1561年)

※『常山紀談』より

永禄4年(1561年)、武田信玄との最大の激闘となった川中島合戦でのことである。

--同年7月ーー

上杉の間者

申し上げます!5月上旬に信玄が家中で二心を抱く者の多くを川中島で処刑したようです。このため、疑心をいだく者も多く出ております。
また、わが兵の多くが割ヶ岳で討死しました。

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謙信

1つは三軍のわざわいは狐疑から生ず・・・、と言う。2つに疲れたところに乗じて攻め込む・・・。
8月には川中島に出陣しようぞ!

三軍というのは左翼、中軍、右翼の3つの態勢であり、これが動揺するのは狐のように疑い深く、ためらうことから生じるということである。

そして謙信は侍大将全員を呼び寄せ、おのおのが思う計略を聞いて書面で提出させ、それを上策・中策・下策の3つに分けた。

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謙信

よし、こたびの戦は下策で行くぞ!

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謙信

上策はすでに武田の察するところ・・。われらを待つのに敵もはかりごとを怠らぬであろう。待ちかまえている相手に攻め入って勝てるものではない。

中策はこれまで何度も協議したものだ。こたびは下策で川中島城(=海津城のこと)を踏み越え、妻女山に陣取り、しばらく武田の後ろ巻きを待つこととする。信玄が来たときには雌雄を決しようとおもう。
もし信玄が川中島城に入ったならば、それを包囲して攻める。また、川中島を陣取って我らの帰路をふさぐなら、すぐに川中島城に向かい攻めようぞ。
さすれば、信玄はかならずや救援に向かうであろうから、そのときにまた一戦して、勝てねば討死もやむを得ん。これが下策を用いる理由だ。

--8月24日ーー

時は過ぎて8月に入り、やがて謙信は妻女山へ入って陣を敷いた。一方の信玄は謙信の思うとおり、後ろ巻きにしてしばらく対陣したあと、川中島城に入った。

--9月9日ーー

この日の夜、謙信は侍大将を集めて軍議を開いた。

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謙信

明日、信玄は必ずや討って出てくるであろう。不意を突き、今夜にも雨の宮の渡りを逆に討って出ることにする。用意せよ!

侍大将ら

侍大将ら:ははあっ!!

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--9月10日ーー

日が変わって寅の刻(=朝4時ころ)、謙信は川中島に兵を出した。先陣は柿崎景家、後ろは甘粕景持が務めた。

信玄率いる1万余の兵が千曲川にすすんで善光寺の要所となる道で待ちかまえていた。謙信は軍を進めて一斉に突撃を開始し、信玄本陣を押し崩した。裏をかかれた武田軍は信玄の弟である武田信繁や山本勘助らを含む多くの武田兵を討ち取ったのである。

しかし、まもなくして妻女山の武田の別働隊が押し寄せてきて、挟撃の危機にさらされた謙信は軍勢を引き上げた。なお、甘粕景持はその後3日間陣を張った後に退却し、殿(しんがり)の務めを果たした。

堅固の私市城、計略をもって攻略(1563年)

※『名将言行録』『常山紀談』より

永禄6年(1563年)2月、謙信が武蔵国における上杉方の拠点・松山城の後援に出ていったときのことである。

とある家臣

御屋形様!すでに松山は落ちた模様でございます。

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謙信

なに!?
おのれ北条め~、このあたりに敵城はないのか?

とある家臣

小田某が私市城に籠城しております。

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謙信

うむ。そこへ討ってでるぞ!

こうして謙信は私市城へ向かった。しかし、私市城は後ろに大きな沼があり、本丸からは外がよく見える構造となっており、攻略が難しい城であった。

謙信はあらかじめ城をみてまわったところ、本丸と二の丸の間はスノコでつくられた橋があった。そして3度にもわたり、池の水面に白地の帷子(かたびら)を着た人の姿を目撃した。

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謙信

むむう・・(女子供が人質にとられておるのだな。)

女子供が人質にとられていると察知した謙信は、家臣の柿崎景家に大手から攻めるよう命じた。そして敵方が大手に兵を集中する隙をみて、謙信は城近くの民家を壊して筏を作り、城の背後にある大きな沼から侵入して大きな鬨の声をあげた。

城内の者たち

敵兵A:内通するものがいたのか!!
敵兵B:もしや本丸がやられたのか!!!
人質C:きゃーーーーー
人質D:に、にげろーーーーー

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城内は混乱に陥り、敵兵は早合点して自害する者や投降する者も続出。謙信は難なく敵城を落としたのであった。

組み討ちによる川中島決着説(1564年)

※『名将言行録』『川中島五度合戦次第』より

永禄7年(1564年)8月、最後の川中島合戦のときのことである。

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信玄

むむう・・これまで12年もの間、謙信と戦ってきたがいまだ決着がつかん。
明日、互いに勇士を出して組み討ちさせ、勝った方が川中島を納めることにしよう。

こうして信玄はその旨を伝えるよう、家臣の安藤彦六に命じ、謙信の陣所へ向かわせた。

--上杉方の陣所にて--

上杉謙信

なに用じゃ?

上杉謙信アイコン
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安藤彦六

はっ!信玄公の意向をお伝えするため、馳せ参じました。

上杉謙信

申して見よ!

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家臣アイコン

安藤彦六

かくかくしかじか・・・・・

こうして彦六は信玄の組み討ちの決戦の意向を伝え、上杉方もこれを承知したのであった。

--翌11日午の刻--

武田方からは安藤彦六が組み討ち場に向かい、一方で上杉方からは小さな馬に乗った小男の武士がやってきて、そして叫んだ。

与五左衛門

上杉家の家老・斎藤下野守の家来、長谷川与五左衛門と申す!
安藤彦六殿との組み討ちをご覧あれ。加勢や助太刀をすれば、長く武門の恥辱となるであろう!

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こうして2人は戦いを開始すると、馬上で組み合いながら両者ともに重なった馬から落ちた。 はじめ彦六が上になって組んだところ、武田方からは歓声もあがったが、今度は与五左衛門が上になって組み伏せると、彦六の首を取って立ちあがり、これを高く持ち上げて叫んだ。

与五左衛門

ご覧あれ!長谷川与五左衛門、勝利したり!

家来アイコン

決着がついて上杉方からはどよめきが起き、武田方は無念に思い、討って出ようとした。しかし、これを見て信玄が制止して言った。

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信玄

鬼神のごとき彦六があんな小男に討たれたのは、われらの武運が尽きたのだ!
約束を果たさぬは武士の恥ゆえ、川中島はお渡しいたす。

そして、信玄は兵を引き上げ、川中島四郡は上杉氏の所領となったのである。

敵に塩を送る(1567年)

※『名将言行録』『真田三代記』より

あるとき、駿河の今川氏真のもとに武田信玄から同盟破棄の報が入った。

これまで今川・武田・北条は三国同盟を結んでそれぞれが姻戚関係にあったが、今川義元が桶狭間で討死して以降、今川家は没落の道をたどっており、こうした対外情勢の変化もあって武田と今川の間には緊張が生じていたのであった。

今川氏真アイコン

今川氏真

くっ!なんてことだ。信玄のやつめ。

すると、家老の三浦右衛門尉が氏真に進言した。

三浦右衛門尉

殿。この際ですから北条と心を合わせて、甲斐への塩を送るのを禁止されてはいかがでしょうか。
甲斐には海がなく、塩を断たれたらおそらく難儀し、それを機に戦に臨めば信玄も降参するやもしれませぬ。

三浦右衛門尉アイコン
今川氏真アイコン

今川氏真

む、それは名案じゃ。フォフォフォ!

こうして甲斐・信濃・上野の民たちは困り、信玄も重臣を集めて対策を練るなどの対応に追われることになった。そしてこの一件は越後の謙信のもとへも届いてきた。


━━━【越後国】━━━

とある上杉家臣

御屋形様!今川と北条が武田領への塩の輸送を禁止したそうです。

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謙信

なに?・・・それはげせんな。。

義に生きる謙信はこの一件を聞いて不快におもったのか、信玄宛てに以下の内容の手紙を書いて送った。

貴国への塩の差し止めの件を聞きました。塩をたつとはなんとも卑怯なふるまいです。このようなことは末代まで武門の恥。弓矢を執って戦えぬからでしょう。海に面した越後は塩の産地です。私は幾度でも貴公との勝敗を戦場で決しようと考えておりますので、塩は必要なだけ送りましょう。


━━━【甲斐国】━━━

謙信の書状が信玄のもとに届くと・・

武田信玄

なんと!・・・フッ、粋なことを。

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武田の者たち

家臣A:おおお!ありがたきことじゃ。
家臣B:なんとも味方にほしい名将じゃ。

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武田の者たちは皆、謙信の義に感動したという。そして、その塩は越後から信濃国へは川中島を通り、上野国へは猿ヶ京を通って運ばれ、莫大な量であったという。

「敵に塩を送る」のことわざが、このエピソードに基づくものなのは言うまでもない。

武田・北条の大軍を退ける(1567年)

※『名将言行録』より

永禄10年(1567年)10月、上野国における上杉氏の拠点・厩橋城(前橋城)が北条・武田兵5万6千もの大軍に包囲されたときのことである。

上杉家臣ら

家臣A:御屋形様!いまこそ上杉の力をみせてくれましょうぞ!
家臣B:そうじゃそうじゃ!武田・北条ごときに負けてなるものか!

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上杉兵たちは城外へ討って出ようと勇んだが、謙信はこれを制止して言った。

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謙信

・・・まあ待つのだ。今は敵方の様子を探ることができぬ。もし伏兵などを置けば、かえって戦いの利を失ってしまう。

上杉家臣ら

家臣A:し、しかしこのままでは・・
家臣B:・・・(そうじゃそうじゃ。どうするのじゃ~)

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謙信

わかっておる。
みなで鬨の声をあげ、貝を吹き、鐘をならし、進軍の太鼓を打ち、敵の後を追って出ていくフリをするのだ。さすれば敵の大軍は驚き騒ぐはず・・。

そこで利根川の渡しまで追いつめれば、川でおぼれる者がでるだろう。これこそが戦わずして勝つ手立てだ。

そして、この作戦に狼狽した北条と武田の兵らは、てっきり上杉が追ってくるものと思っていた。さらに強風で塵土が舞いあがり、目も口も開けられず、後ろを振り向くこともできず、謙信の思惑どおりに川で溺死する者が多かったのである。

一騎討ちを評す者たち(1573~78年の間)

※『朝野雑載』より

武田家が信玄亡き後の勝頼の時代、諏訪越中守(諏訪頼豊)が言った。

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諏訪頼豊

川中島のとき、謙信は萌黄緞子(もえぎどんす)の胴着に白い布で頭を包み、三尺ほどの刀を持って月毛の馬で信玄のもとへ乗りかけ、刀身で三太刀までも切りつけた。
それに対し、信玄は刀に手すらかけずに軍配で謙信の強烈な太刀を受けた。その振る舞いは堂々としていて、威圧的なものであり、さすがは名だたる名将である。

このように信玄のことを称賛した。すると、今度は藤田能登守(藤田信吉)が言った。

藤田信吉

われらは上杉譜代の者だからその話は聞いている。
しかし、軍配で受けた信玄公を世間が名将とほめたことに対し、謙信公はケラケラと笑い「信玄もさぞかし、その時は太刀を抜きたかったろうが、わしのほうがたたみかけて打ってかかったから太刀を抜くヒマもなかったのだ。」と話しておられた。

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と言ったという。

信玄よりも劣る部分を語る(1577年)

※『名将言行録』より

天正5年(1577年)、謙信が加賀の松任城を落とした。このとき信長の軍勢が七尾城救援に向けて松任城近くにまで進軍していたが、七尾城・松任城が上杉軍の攻撃で陥落したことを知り、不利を悟って撤退していった時のことである。

この機に乗じて越中国の神保を討つよう、家臣たちは謙信に進言した。しかし、これに対して謙信は言った。

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謙信

それは浅はかな考えだ。あの信玄は6分の勝利を完全なものとし、7、8分までモノにしようとはしなかったと聞いておる。
こたびは信長の5万余の大軍を前にして松任の要害を落とし、特に城主は強敵であった長兄弟を討ち取って、さらに信長方の軍勢をこちらより仕掛けて追い崩しておる。これは11分以上の大勝だ。

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謙信

そのうえ、神保を攻めて越中まで得るとなると、18分の勝ちといっても過言ではない。「天道は満ちるを欠く」ということがある。まずまず今回は帰陣するのがよいであろう。
信玄ならば決して松任城を攻め落として大聖寺の陣に仕掛けるというようなことはしなかっただろう。こういう点がわしが信玄に及ばないところのひとつなのだ。

家臣たち

家臣A:なるほど・・さすがは御屋形さまじゃ!
家臣B:・・なんとも思慮深く、的を得ておる!
家臣C:うんうん・・。

家臣団アイコン

こうして皆感服したのであった。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

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