「旧満洲国探訪 金州」日露戦争緒戦の激戦地「南山」の麓にある遼東半島の〝古都〟
- 2024/05/17
日本軍を迎撃するのに絶好の場所だった「南山」
明治37年(1904)2月10日、日本はロシアに宣戦布告して日露戦争が始まる。陸海軍の動きはそれよりも早く、朝鮮半島ではすでに戦闘行動に入っていた。遼東半島先端部の旅順港は、日本にとって最大の攻略目標。堅牢な要塞に囲われた港湾は、ロシア太平洋艦隊の根拠地となっている。
連合艦隊はいち早く出撃して旅順を包囲、遼東半島沿岸の制海権を奪取して、旅順港内の敵艦隊と睨みあっていた。また、陸上からの旅順要塞攻略をめざして、5月5日には日本軍第 2 軍が遼東半島の塩大墺西岸に上陸。大連に向けて南下を開始する。まずは大連港を確保し、旅順要塞攻略の根拠地を築くことが緒戦の戦略目標だった。
遼東半島は金州の付近で、大連湾と金州湾が深く入り込んだ地峡になっている。金州の南方約3km、南山と呼ばれる丘陵地帯のあたりで陸地は最も狭まり、その幅は4km程度しかない。北方から迫ってくる日本軍を阻止するのに絶好の場所であり、ロシア軍はここに強固な陣地を築いて待ち構えている。
丘陵は幾重もの鉄条網や土塁で覆われ、100門を越える野戦砲や新兵器の機関銃が設置されていた。
激戦地もいまは草木に埋もれて
南山は日露戦争緒戦の最激戦地となった。が、現在はそんな雰囲気が微塵も感じられない。緩やかな丘には草木が豊かに繁り、彼方に目をやれば大連湾や金州湾の素晴らしい眺望が広がっている。のどかな眺めだった。散策を楽しむ人々の姿もあり、平穏な空気が漂っていた。
しかし、よく目を凝らして見ると、草木に埋もれた生々しい戦いの痕跡をみつけることができる。ロシア軍が築いた土塁が、そこかしこに残っている。
土塁跡に立てば、麓からつづく斜面が見渡せる。3 万人を越える日本兵が、小銃を構えて斜面を駆け上ってくる。土塁に設置された機関銃が、突撃してくる日本兵めがけて火を噴く……と、凄惨な光景が脳裏に浮かぶ。また、土塁付近は鉄条網や地雷原などで厳重に守られ、落とし穴などのトラップも随所に仕掛けられていたという。
南山は標高約116mの緩やかな丘陵で、いまは散歩がてらといった感覚で簡単に頂へ達することができる。しかし、当時の日本兵にとっては命懸けの道。数メートル進むにも多大な犠牲を払わねばならない。
山頂を攻略してロシア軍が撤退するまでの2日間で、3万4019発の砲弾と220万3106発の小銃弾が消費されたこの数は、10年前の日清戦争の全期で消費された量を上回る。南山の戦いで、日本軍は近代戦の凄まじさを嫌というほど味わった。勝利したとはいえ日本軍の被害は甚大で戦死者719名、戦傷者は3516名にもなる。
旅順要塞攻略で名を馳せた第三軍司令官・乃木希典大将の長男・乃木勝典中尉もこの戦いで戦死した。
山川草木転荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
とは、後に乃木大将がこの戦場を訪問した時に書いた漢詩。戦前には山頂から20mほど下ったロシア人墓地の付近に、歌碑も建っていたという。現在は撤去されて旅順の日露監獄旧跡博物館に保管されている。
また、山頂には「南山戦績塔」も建っていたのだが、こちらも文化大革命の時に破壊されてしまった。いまは朽ち果てた台座だけが残る。
台座の大きさから見て、かなり高く巨大なモニュメントだったことが察せられる。旅順の203高地にある慰霊碑とともに、日本内地からの修学旅行では必ずコースに組み込まれる名所になっていたという。
かつて遼東半島最大の街だった
日露戦争後、ロシアが建設した東清鉄道南満州支線(旅順〜長春)は日本に割譲され、南満州鉄道が発足する。南満州鉄道の本線は遼東半島先端部の地峡を過ぎると北上し、半島西岸を通るルートになっている。昭和2年(1927)には半島東岸を通る金城線(戦後は金荘線に名称変更、現在は廃線)が開通したのだが、この支線の始発駅となったのが金州駅だった。遼東半島の東西を走る鉄路が分岐する金州駅は、南満州鉄道の主要駅のひとつに。駅前は荷物を満載した馬車や大勢の旅客でにぎわうようになっていた。
金州駅は街の中心部から少し離れた場所にある。ロシアがここに鉄道を建設した当時、金州の街は高い城壁に囲まれており、中心部に鉄道を引くことができなかった。
金州には、清国が遼東半島南部地域の統治と防衛を目的に金州副都統衛門を設置している。城壁の内側には副都統衛門を中心に街並みが形成され、ロシアが大連の街を建設する以前は遼東半島最大の街だった。
日本統治時代にもまだ城壁は残っていたが、文化大革命の頃にすべて壊されてしまった。しかし、金州副都統衛門はいまも街の中心部に現存し、庭園や建物が復元されて観光名所になっている。
金州副都統衛門の敷地に入ってみる。広い庭園の一角に「金州城にて 正岡子規」と刻まれた石碑があった。これも近年の発掘調査で句碑が発見されて復元したものだという。
日本が清国と戦った日清戦争でも金州は重要な攻略目標だった。子規は明治28年(1895)4月15日に従軍記者として遼東半島に上陸したが、すでに戦闘は終わっていた。この 2 日後には下関で日清講和条約が締結される。
戦争が終わってしまえば従軍記者に仕事はない。この後、子規は1ヶ月ほど滞在しているのだが、さぞや退屈だったろう。
暇を持て余していた子規は、5月になると旧松山藩主で近衛師団副官の久松定謨中尉から招待を受けて、金州随一の名料理店だった宝興園を訪れている。石碑に刻まれた句は、その時に詠まれたもの。
行く春の酒を
たまはる陣屋哉
旨い酒と料理で気分転換、気分も少しは上向いただろうか。旅順や大連がまだ未開発の辺境だった頃、そういった楽しみのある街は金州だけだった。
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