「旧満洲国探訪 遼陽」日露戦争初の主力決戦がおこなわれた南満洲の要衝

首山堡の遠景
首山堡の遠景

遼陽会戦に臨む日本軍

 明治37年(1904)5月30日、南山を攻略してロシア軍を旅順に封じ込めた日本軍第2軍は、旅順要塞攻略を乃木希典大将指揮下の第3軍にまかせて北上を開始。また、朝鮮半島を進撃していた第1軍も、中朝国境の鴨緑江を越えて満州に入っている。日露戦争は第二の局面に入った。

 8月になると日本軍は第1軍と第2軍にくわえて、新編成された第4軍が遼陽近郊で合流して布陣を完了した。その総兵力は12万 5000にもなる。日本側は遼陽でロシア軍主力と決戦し、これを壊滅させて戦争を短期間で終結させようという意図があった。

※参考:日露戦争の経過(出典:wikipedia)
※参考:日露戦争の経過(出典:wikipedia)

 一方、ロシア満州軍総司令官のクロパトキンは、これまで消極的な戦いに終始していた。日本軍を満州内陸部に誘導し、兵站線を断ち切って消耗させるのが狙い。それはロシア軍の伝統的戦術だった。

 しかし、敵が遼陽にまで迫ってきたとなれば話が違ってくる。19万6000の大兵力を集めて、一歩も引かぬ決意を示した。日本軍はこれまで無理をして進撃し、弾薬もかなり消耗している。クロパトキンも、そろそろ決戦にちょうど良い潮時だと考えたようである。

 遼陽は満州南部の交通の要衝。古くから街道が交差する交通の拠点としてにぎわい、かつて中国北方を支配した遼王朝が東京遼陽府を設置した。また、清の太祖ヌルハチも一時は遼陽を都としたことがある。遼東半島の金州と同じように〝古都〟のイメージが色濃い町だった。

 遼陽は近代になってからも、ロシアが経営する東清鉄道の物流拠点として機能した。人口は6万人にもなり、当時の満州では有数の人口をかかえる都市だった。

 また、ロシア満州軍総司令部がある最大都市の奉天(現在の瀋陽)までわずか65キロの近い場所にある。ここを突破されるとロシア軍中枢は危機的状況に陥ってしまう。日本軍に奪われるわけにはいかない。

現在の遼陽の中心地
現在の遼陽の中心地

陸軍の軍神第一号が誕生した激戦地

 8月24日より日露両軍は本格的な戦闘に突入する。第1軍が遼陽東方の敵陣地に突撃し、第 2 軍と第4軍は鞍山站のロシア軍を駆逐して首山堡に迫った。

 首山堡は遼陽防衛ラインの要、旅順でいえば203高地といったところだろうか。標高約200メートルの緩やか丘陵地帯だが、鉄条網や堡塁などで幾重にも囲まれ、機関銃を装備したロシア兵が待ち構える。鉄壁の防御陣地が構築されていた。

 8月30日、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟の兄・秋山好古少将率いる騎兵主体の秋山支隊が、機動力を活かして首山堡西方にまわり込み、側面攻撃で敵に打撃を与えた。

 さらに日が暮れると第2・4軍の主力が夜襲による総攻撃を開始した。しかし、敵の防御は固く一進一退の攻防がつづく。

 ちなみに、この戦闘で戦死した歩兵34連隊大隊長の橘周太少佐(死後、中佐に進級)は、奮戦ぶりが讃えられて陸軍の軍神第一号となっている。海軍の軍神第一号である廣瀬武夫中佐とともに、戦前の日本では知らない者がいない英雄。その活躍は小学校の教科書に載り、生地である長崎県雲仙には橘神社が建立され、神に祀りあげられた。

遼陽にある戦死記念碑(『少年軍神橘中佐』(1933年)より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
遼陽にある戦死記念碑(『少年軍神橘中佐』(1933年)より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 さて、首山堡で激戦がつづいていた8月31日、第1軍がロシア側の意表をついて太子河を渡河し、遼陽を迂回して敵の後方を遮断する位置に布陣した。

 奉天への退路を断たれることを恐れたロシア軍は、第一線の防御ラインから兵力を引き抜いて第1軍を攻撃。背後の日本軍を排除しようと躍起になる。そのため前面の防備が手薄になり、苦戦していた第 2・4軍はついに首山堡を攻略して防衛ラインを突破。撤退するロシア軍を追撃して遼陽の近郊まで迫った。

 日本軍に包囲されて、ロシア軍は遼陽に籠城する展開に。9月2日に防衛の要だった饅頭山の陣地を日本軍に占領されると、クロパトキンの戦意はすっかり萎えてしまう。退路が確保されているうちに……と、兵力的に優位だったにもかかわらず、奉天に向けて撤退を開始する。が、弾薬が尽きた日本軍は、追撃することができなかった。

 9月7日、ロシア軍が去った遼陽に満州軍総司令官の大山巌元帥が入城した。当時の遼陽市街地は高い城壁に囲まれ、大きな楼閣が設置された城門もあった。まさしく「入城」と呼ぶにふさわしい眺めだったという。

日本統治下の観光都市・遼陽

 日露戦争勃発の直前、明治36年(1903)の遼陽には82名の日本人が住んでいた。その約半数にあたる40名の業種は「娼奴」だった。遼陽市街地には日本人経営の娼館があり、満州内陸部では珍しい日本人女性を目当てに、中国人客が押し寄せて繁盛していたという。

 当時の遼陽で日本人の地位は低い。日本人の多くが住んでいた鉄道附属地の行政権はロシアにあり、両国の関係悪化によって立場はさらに弱くなっていた。そして日露戦争が始まると、遼陽の日本人は全員が退去を余儀なくされた。

 日露戦争後のポーツマス条約により、ロシアは長春以南の鉄道利権を日本に譲渡した。これによって遼陽の鉄道附属には、多くの日本人が移住するようになる。日露戦争以前とは立場が逆転して、日本人は遼陽の支配者として君臨した。

 その後も遼陽の人口は増えつづけ、満洲国が建国された頃は10万人を突破している。しかし、その伸び率は満州の他の都市と比べると高くはない。

 同じ内陸部にある撫順や鞍山などは、石炭採掘や鉄工業などの産業が発展して人口がみるみる急増していった。かつて「満州の古都」と呼ばれ、交通の要衝として栄えた頃の栄光は過去のものに。遼陽の都市人口は全満州で 14位にまで落ちた。

「当時の遼陽の街は、日本人の人口が少なくて心細かった」

 と、大正時代末期に南満州鉄道の遼陽支社に赴任した人物の手記にも書かれている。どうやら、日本人居住区である鉄道附属地も、大連や奉天などに比べるとあまり発展していなかったようだ。

遼陽の地図(『遼陽遊行』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
遼陽の地図(『遼陽遊行』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 遼陽の鉄道附属地は城壁で囲われた旧市街地から近かったのだが、鉄路と旧市街が隣接しているだけに、鉄道附属地の面積は狭くなる。これも発展を阻害した一因になったのだろうか?

 駅前から真っ直ぐ伸びる昭和通りから、欧米スタイルのランナバウト(円形交差点)で接続する大和通りを進むと、まもなく旧市街の城壁に行き着く。距離にして約1キロのこの道筋は、日本人街のメインストリートでもある。

かつては城壁で囲われていた遼陽の市街地
かつては城壁で囲われていた遼陽の市街地

 満洲国建国以前、大和通りには奉天日本総領事館が設置した遼陽出張所があった。各銀行支店や日本人医師がいる病院、日本の商品を揃えた商店なども建ちならんでいる。

 日本人人口が少なく多少の心細さはあるものの、内地と同様に必要なものはすべて揃っていた。日本人が住むのに不便を感じさせるようなことはない。

 また、遼陽は日本人観光客には人気のある町だった。旧市街には後漢時代からの古刹・広佑寺があり、世界最大とされる青銅香炉や黄金仏像を拝むことができる。

広佑寺
広佑寺
青銅香炉
青銅香炉
黄金仏像
黄金仏像

 広佑寺の近くには、遼代に建設された高さ70メートルの白塔がそびえている。これも満州では最も高い仏塔として知られ、当時は遼陽駅からも眺められたという。

広佑寺近くに建つ白塔
広佑寺近くに建つ白塔
広佑寺跡の俯瞰図
広佑寺跡の俯瞰図

 さらに、軍神・橘少佐を生んだ首山堡をはじめ、周辺には日露戦争の有名な古戦場がいっぱい。修学旅行の人気コースにもなっていた。

 遼陽の駅前や鉄道附属地には、日本人観光客を当てこんだ旅館やホテルも多く、宿泊施設は充実していたのだが、ヤマトホテルの建設を望む声が地元では高かったという。

 南満州鉄道が経営する最高級のヤマトホテルチェーンは、日本内地でもその名を広く知られている。良い宣伝材料となって、観光客の誘致につながるだろうと、陳情もおこなわれたようだったが……これは実現しなかった。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。