加賀様参勤交代のお供4000人!? 大名同士の見栄の張り合い

江戸時代、多大な出費を強いて大名たちを悩ませた参勤交代制度ですが、一方で自分の藩の力を誇示できる場でもありました。自家の財力や武力を他藩や庶民に示す絶好の機会とあって、従者の数は次第に増えていき、行列の長さもどんどん伸びて行きます。

加賀様の行列4000人

中でも最大の人数を誇ったのは、江戸時代を通じて石高全国一の座を譲らなかった加賀100万石の前田家です。

外様でありながら幕府から徳川御三家につぐ待遇を受け、官位も外様の中では唯一従三位参議の位に昇りました。そんな加賀様ですから参勤交代の大名行列もそこらの中小大名と同じではいけません。四代藩主・前田綱紀の時には、行列に従う者は4000人を数えました。

4000人が2列横隊2m間隔で歩いた場合、行列の長さは4kmにもなります。実際の行列は露払いとして、本隊の1里先を鉄砲・弓・長柄槍で各1部隊を編成した“お先三品”が進みます。

次に藩主の駕籠を中心とした “行列の内” と呼ばれる本隊が進み、これは450人程度です。その後ろには家老が家来200人ほどを連れてしんがりを務めます。そのさらに後から本隊と1日の間を空けて伴家老が従者を連れて進みました。

この行列と行き会ったオランダ商館付き医師のエンゲルベルト・ケンペルが日記に「行列の先陣とすれ違ってから藩主を見たのは3日も経ってからだ」と書いています。さすがにこれは誇張かと思われますが、ともかく長大な列だったことは間違いなさそうです。

最初からこれほどの大行列ではなかった

もっとも最初からこれほどの大行列ではありませんでした。元和元年(1615)に制定された『武家諸法度』では、従者の数を20万石から100万石の大名では20騎以下、10万石以下の大名ならその分に応じるようにと規定しています。当時は豊臣家の滅亡直後だったため徳川に敵意を抱く者が何を考えるか分からない、大勢の家来を引き連れて来て反乱でも起こされてはと警戒しました。

その後もたびたび幕府は行列の規模を規制しています。ある時は1万石程度の藩の場合は騎馬は3~4騎・足軽20人・人足は30人までと随分寂しい行列です。記録では肥前福江藩の総計37人との小規模なものもあります。

5万石になると騎馬7騎・足軽60人・人足は100人、10万石では騎馬10騎・足軽80人・人足140~150人と、大分大名行列らしくなってきました。20万石以上だと騎馬15~20騎・足軽120~130人・人足250~300人が許可され、堂々とした行列が組めます。

※参考:石高別の行列規模の比較
石高騎馬足軽人足
1万石程度3~4騎20人30人
5万石7騎60人100人
10万石10騎80人140~150人
20万石以上15~20騎120~130人250~300人

この後も幕府は倹約の一環として何度も大名たちへ人数制限の布告を出していますが、「他藩に負けてなるものか」の大名たちにはなかなか守られなかったようです。

旅と言うよりほとんど引っ越し

先ほどの加賀藩の例を読んで「なんだ。全部合わせても1000人も居ないじゃないか…」と思われたかもしれませんが、行列の大半を占めるのは荷物運びの人足でした。何しろ参勤交代は大荷物です。旅と言うよりはほとんど引っ越しのような感じです。

藩主は毒殺を防ぐため、宿で出される食事はとらずに専用の料理人を連れ歩き、包丁や鍋・釜なども普段使っている物をそのまま運んで来ます。当然米や塩・味噌なども国許から持ってきますし、日持ちのしない食材は現地調達ですが、それもよくよく吟味して提供されます。

漬物も漬物石と一緒に樽ごと運んで来ました。なんと風呂まで運んでいたようで、江戸時代の風呂は竈の上に風呂桶を置く五右衛門風呂でしたから、底の鉄板を踏み抜くと大火傷をする危険がありました。そこで専用の風呂桶を本陣に持ち込み、沸かした湯を汲み入れる方法が取られました。風呂桶だけでなく、湯を体にかけるための手桶や、風呂から出た藩主が座る腰掛なども当然一緒に運びます。日常生活をそのまま持って行くようなものですから大量の人足が必要だったのです。

行列の大半は荷物運びの人足

文政10年(1827)の加賀藩参勤交代行列の総勢は1969人ですが、加賀藩の直臣は1割以下の185人です。家臣の奉公人が830人、残りの686人は人足ですが、そんな大勢の人足は藩の常雇いではなく、その時だけの臨時雇いです。藩がそんな大人数を常時抱え込んでいては、たまったものではありませんからね。その時に口入屋に声をかければ上手く整えてくれます。

荷物の運び方も最初の頃は宿から宿へリレー式に運び、人足もそこで入れ替る “宿継(しゅくつぎ)人足” 方式が使われました。しかしこれでは手間も費用も掛かるので、国許から江戸まで通して荷運びをする “通日雇(とおしひやとい)” が登場します。多くの大名がこれを利用したので、“六組(むくみ)飛脚問屋” という “通日雇” 専門の斡旋業者まで登場しました。

まさに大名行列の加賀藩でしたが、二代藩主・利常の頃までは戦国の余風が残っており、夜道を歩いたり利常自身も腰まで水につかりながら川を渡ったそうです。昼食の汁物も持って来た干鱈を焼き、道端のハコベを摘んで入れたものを好んで食べたとか。

松浦静山の『甲子夜話』によると、前田家は原則として本陣には泊まらず、宿場の端で野陣のように宿ったと言います。規律も厳しく家臣たちが宿の料理に不服を言う事は固く禁じられ、物音を立てることさえ憚られました。

おわりに

何も参勤交代ばかりが大名行列ではありません、日光社参や江戸城への登城など、大名が出かけるとあれば行列を仕立てました。大名行列にはまだまだ面白い話がたくさんあります。


【主な参考文献】
  • 山本博文『参勤交代の不思議と謎』(実業之日本社、2017年)
  • 永井博『歩く・観る・学ぶ 参勤交代と大名行列』(洋泉社、2012年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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