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【塔の考古学その1】塔の土台石、心礎(しんそ)を学ぶ

はじめに ─心礎(しんそ)とは?─

皆さんは外で見かけるビルの下の方に「定礎」とかかれた部分は見たことがありますか?

この定礎は、ビルを支える土台の石です。現代でも用いられている建築技法のひとつである、「石で建築物を支えて建てる」は今から1100年前に日本にやってきた方法です。

今回は建物のうち、塔の心柱を支える土台石の1種である心礎をご紹介いたします。

1、心礎の役割

● 塔の心柱(しんばしら)を支える
塔には相輪を支えるための心柱という大きな柱があります。心礎はこの心柱の底に敷かれることで、心柱や塔を支えています。

● 仏さまの遺骨の舎利(しゃり)を納める
塔には仏さまの遺骨である舎利を納める役割があります。この舎利を、塔の内で納める場所のひとつとして心礎が選ばれたお寺も多くあります。心礎の表面や側面に小さな穴(舎利穴)を穿ち、この穴に舎利を納めていたと考えられています。

2、心礎の移り変わり~かたち扁~(図1)

※(図1)心礎の形の違い一覧
※(図1)心礎の形の違い一覧

● 柱穴や豪華な彫刻(6世紀末~7世紀中ごろ)
心礎は直径2mから1.5mといった大きな石が使われており、その石の表面に柱を嵌め込むための大きい穴(柱穴)が穿たれていました。

また、大阪の野中寺といったお寺の心礎には亀をモデルにした彫刻がされており、かなり凝った心礎がこの時期にはありました。

● 柱穴から枘穴へ。加工の単純化が進む(7世紀中ごろ~8世紀)
この頃になると、心柱の作り方が変わり、柱の底に(ほぞ)という出っ張りが作られる様になります。このほぞを嵌め込むための小さな穴が心礎に作られるようになり、心礎の加工が単純化していきます。

● 質素な加工(7世紀末~8世紀中ごろ)
この頃になると、心礎の表面に穴を穿たれる事が少なくなり、粗い加工や無加工の心礎が多くなります。

3、心礎の移り変わり~建築方法扁~(図2)

※(図2)心礎の埋める場所の移り変わり一覧 左〜右:6世紀〜8世紀
※(図2)心礎の埋める場所の移り変わり一覧 左〜右:6世紀〜8世紀

● 地下に埋める(6世紀末~7世紀中ごろ)
基壇(きだん:建物を支えるための盛土や石組)の奥深く(地上から2、3m以下)に心礎を埋めて固定していました。

● 地下だけど少し地上付近に埋める(7世紀中ごろ~8世紀)
基壇の底(地上から1.5、1m以下)に埋めて固定していました。

● 地上に出す(7世紀末~8世紀中ごろ)
基壇の表面に埋めており、屋根瓦の重さや相輪の重さによって固定していました。

おわりに

古代寺院の塔、塔跡には必ずと言っていいほど心礎や心礎があった跡があります。

一見巨大な石だけのように見えますが、時代によって、その時のニーズや技術の簡略化に合わせて変化したものであり、心礎は寺院の歴史を物語る重要な遺物のひとつです。

お寺に訪れた際はぜひ心礎を探してみてください。

※参考文献
岩井隆次1983『日本の木造塔跡』
鈴木喜民編 2010 佐川正敏 2010「王興寺と飛鳥寺の伽藍配置・木塔心礎設置・舎利奉安形式の系譜」『古代東アジアの仏教と王権 王興寺から飛鳥寺へ』
内藤仁2008「塔心礎の排水に関する研究」http://niwajin.jp/index.html《2022年3月29日閲覧》

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  この記事を書いた人
まっさん さん
お寺が好きなどこかの大学院生です。 考古学を専攻しており、古代日本史が大好きです! 将来の夢は文化財専門職

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