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嵐山・二尊院に佇む銅像「角倉了以」は京都を繁栄させた貢献者!その功績と人柄とは?

角倉了以(すみのくら りょうい)という人物をご存知でしょうか?角倉了以は戦国時代に活躍し、京都の発展に大きく貢献した人物です。

桜や紅葉シーズンに観光で京都へ行き、美しい川と町の雰囲気に癒されたという人も多いはず。その京都の風光明媚な風景も、実は角倉了以がつくったものかもしれません。今回は角倉了以と京都との関係を紐解いていきます。

角倉了以とは?

京都の豪商として有名な人物です。角倉了以は京都で裕福な医者の家に生まれました。

もとは「角倉」ではなく「吉田家」の四代目であり、吉田家は代々幕府に仕え医学の発展に尽くしてきた富裕な家でした。しかし了以は家業である医者を継ぐことなく、実業家として活躍しました。実家が医者だけでなく金融業も営んでいたことが関係しているようです。

角倉了以の有名な功績としては、
・南蛮貿易
・治水工事
が挙げられます。それぞれ詳しく見ていきましょう。

角倉了以の功績とは?

南蛮貿易で成功

角倉了以は南蛮貿易をはじめ日本の貿易業の先駆けとして活躍しました。

「朱印船貿易」でベトナムと交易をはじめ、これが大当たりし、財を成したといいます。商人としての才能も相当のものだったと言われています。この朱印船貿易は了以の晩年、鎖国がはじまるまで続きました。

治水事業に財を投じる

角倉了以は大堰川(おおいがわ)や高瀬川を開削した人物として有名です。開削には膨大な私財を投入したといわれています。

大堰川は保津川や桂川と同じ川の呼び名で、嵐山周辺および上流域で呼ばれる呼び名です。また、高瀬川は京都の街中である木屋町を流れる川です。

これらの開削は浅瀬を航行できる船を京都でも活躍させるためで、この功績により丹波から農産物や材木が京に運ばれるようになり、京都の生活が大きく変わったとも言われています。

また、今までいかだでしか運搬できなかった米や塩・木材なども船で自由に運ぶことができるようになり、 沿岸の民衆に利益をもたらし暮らしを豊かにしました。そのため地元では『水運の父』とよばれたといいます。

それだけでなく、富士川、天竜川、庄内川などの開削や大阪からの資材の運搬も担ったことがあるといい、その業績を知った家康がその実力に感心し褒めたという書状も現存しているのだとか。

今は当たり前のように生活の中に溶け込んでいる高瀬川ですが、当時は重要な役割があって京都の発展に大きく貢献していたのだと感じることができます。

角倉了以の銅像

嵐山の小倉山にある二尊院に、角倉了以の銅像とそのお墓が建っています。角倉家の一族の墓もここにあるのだとか。

二尊院は桜の季節や紅葉の季節に人気がある人気の観光スポットです。

この立派な銅像からも角倉了以の功績がいかに大きかったかがわかりますね。

角倉了以の人柄がわかるエピソード

角倉了以は高瀬川開削完成の年に亡くなりました。

当時の開削工事は簡単なものではなかったと想像されます。数多くの犠牲を出しながらも成功した開削ですが、角倉了以は大堰川の開削工事の犠牲者の霊をとむらうために、千光寺を移転して大悲閣を建立し、千手観音をお寺に祀り亡くなったといいます。

また、高瀬川の開削の際には「悪逆塚」が荒れ果てていたのを見て、「悪逆」の2文字を削って塚を修復しました。「悪逆塚」は三条河原で亡くなった豊臣秀次の首を曝し、その妻子30人以上が埋まっていた塚のこと。瑞泉寺も建て供養したといいます。

まとめ

角倉了以は朱印状貿易によって財を成しましたが、その財を投じ人々の生活を豊かにするために人生を捧げました。亡くなった人々を忍び供養するなど、最後まで他人のことまで気にかけていたとも言えます。

戦国時代から江戸時代へ、時代が大きく移り変わる中で活躍していたのは戦国武将だけでなく、角倉了以のような商人の活躍があったことも忘れてはならないのかもしれません。

京都に来られる際は高瀬川や大堰川などにも注目してみてはいかがでしょうか。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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