都の大商人「角倉了以」 御朱印船貿易だけじゃない…河川改修者の一面もあった!
- 2024/12/18
京都の繁華街・木屋町を流れる高瀬川、春は川沿いの桜が美しく、森鴎外の名作『高瀬舟』の舞台ともなった川です。実はこの川、江戸時代初期に京都の中心部と、大阪への水運の玄関である伏見を結ぶために造られた人工の河川です。作ったのは京都の豪商、角倉了以(すみのくら りょうい)・与一父子です。
豪商・角倉了以、隠居したはずが…
角倉了以の巨万の富は、戦国時代末期の安南国(ベトナム)との御朱印船貿易で得たものです。50も過ぎた了以、太閤様の世が終わり、徳川の世になったのを契機に余生をゆっくり楽しもうと、商売を息子の与一に譲って隠居生活を始めました。しかしふとした出来事が了以を再び現役生活に引き戻します。ある時、美作国(岡山県北東部)に出かけた了以は、山あいの小さな川で底の平たい船が荷物を運んでいるのを目にします。
了以:「こんな水の浅い川でも荷船が走れるのか。ならば私の住まいする嵯峨の大堰川でも舟運が開けるだろう」
京都嵯峨は山1つ超えれば丹波です。丹波は良質な木材や多くの米穀を京の都に提供してくれます。しかしそれらの荷物は馬や荷車での陸上運送で、国境の難所の老ノ坂を超え、桂を大回りして都に運ばれていました。丹波から流れて来る大堰川に荷船が通せれば、大量の物資を楽に京都へ運び込めます。
了以:「よし、儂がやろう」
了以は開削費用全額を角倉家で負担することでこの大事業を引き受けました。しかしそこは商人、採算が合わない事はしません。運河が開通すれば自宅のある嵯峨が物資の集積地となるので、舟の通行料と物資の保管料を徴収すれば充分に元は取れます。しかも都の人々や運送が便利になった商人たちからも感謝されと良いことずくめです。
家康が聞きつける
工事は1年もかからずに完成し、物資の流通がぐっと便利になりました。この話を耳聡く聞きつけたのが家康です。家康:「そんな重宝な男がいるのか」
家康は了以に甲斐の甲府から駿河の岩淵まで70kmの富士川の整備を命じます。引き受けた了以、川中にごろごろする大岩は轆轤(ろくろ。重い物を引いたり上げたりするのに使う滑車のこと)につないで岸に引き寄せ、根の生えた巨岩は櫓(やぐら)を築いて、大きな鉄の塊を吊るしてぶち落し、粉々にします。火薬も使いました。川底の浅い場所は掘り下げ、滝は削って平にして流れを緩やかにします。
こうして富士川は舟の行き交う川となり、甲斐の年貢米は川を下って清水港へ運ばれ、そこから大型船で江戸へ送られました。明治時代の鉄道開通(1903)までこの舟運はこの地の大動脈となりました。この後、了以は矢継ぎ早に天竜川の整備も命じられますが、天竜川は流れが激しくて工事は断念されます。当時、都では豊臣秀頼が方広寺大仏再建を進めていましたが、了以はその木材の運搬に鴨川の利用をすすめ、自ら整備も行います。この工事をきっかけに了以は鴨川とは別の水路の必要性を痛感します。
家康は信長や秀吉と異なり、政権の中心を関東に置きました。
家康:「天子様がおられるとはいえ、この先京都は沈んで行く、そのような京の都は見たくない。大坂と京都を水路で結んで一つにすれば江戸に対抗できるのではないだろうか」
二条辺りを起点に水路を掘り、鴨川から水を引き込んで伏見で宇治川と合流させ、後は淀川を下れば大坂まで行けます。
高瀬川
これは一から水路を掘る大掛かりな工事ですが、慶長16年(1611)に幕府の許可を得た了以は、さっそく予定地の田畑の買取りを始めます。京都南部竹田村の農民、奥田左近に宛てた書状には次のように書いています。「計画が頓挫したら土地は元の畑に戻して返す。また近隣の百姓は代々この川の水を稲作・畑作に使って良い」
幕府の許可を得ているのですから強制的に土地の収用も出来るのですが、了以はそうはせずに付近の者すべてに誓紙を入れました。
慶長19年(1614)の春、二条樵木町(こりきちょう)から伏見まで全長10km、幅7mの運河が完成します。了以の思惑通り、京・大坂の水運は格段に便利になります。瀬戸内海から大坂へ入った西国の物資は、淀川を舟で遡り伏見から運河を通って京都の中心に運ばれました。その量も速さも陸送より格段に上です。川沿いには木屋町・材木町・塩屋町・石屋町など新しい町が次々に造られ京都は活気づきます。
「高瀬川」と名付けられたこの運河の七万五千両もの工事費は、すべて角倉家の私財で賄われました。しかし1回の船賃二貫五百文のうち、半額は角倉家の収入となり、その儲けは年に一万両を超え、数年で工事費は取り戻せました。
最後の計画
しかし50を過ぎてからいくつもの大工事を指揮して無理がたたったのでしょう。高瀬川の完成を見届けた年の7月、了以は61歳で亡くなります。ただ、了以自身はもっと大きな夢を持っており、それを家康のブレーンであった林羅山に語っています。了以は羅山より30歳ほど年長ですが、同じ京都生まれと言う事もあって知り合いだったようです。了以が亡くなって2ヶ月ほど経った頃、羅山から了以の跡継ぎ与一に書状が届きます。その中に生前了以が語っていた計画が書かれていました。それによると、了以は瀬田川・宇治川を掘り広げ、琵琶湖から京都伏見までの一大水路を開通させようとしていました。北陸の物資を琵琶湖を船で運び、湖から流れ出る唯一の川瀬田川を下り、下流の宇治川から伏見に運び入れればその先は淀川を通って大坂まで水運が開けています。
つまり、北陸から大坂までの一大水路が完成するのです。同時に琵琶湖の水位を下げて、二十万石の新田を生み出そうとしていました。この話を聞いた家康は
家康:「たとえ舟運の方は上手く行かなくとも近江に二十万石の新田が出来るのであれば充分だ」
と大いに乗り気でしたが、計画は実現しないうちに了以は亡くなってしまいました。
おわりに
大きな工事にはその結果に明と暗が伴いがちです。高瀬川の開通は多くの人々に利便性をもたらしましたが、それまで陸送を担ってきた車借業者は大打撃です。鴨川と桂川が合流する下鳥羽(しもとば)には車借業者が集まっていましたが、高瀬川の開通後仕事が激減したこれらの業者が角倉家を相手取って訴えを起こします。その結果、運河で荷物を運搬する高瀬舟は36艘に制限されます。しかしいつのまにかこの約束は反古にされてしまいました。
【主な参考文献】
- 宮田章『角倉了以の世界』(大成出版社、2013年)
- 森洋久『角倉一族とその時代』(思文閣出版、2015年)
- 河合敦『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHPエディターズ・グループ、2019年)
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