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【やさしい歴史用語解説】「封建制」
- 2024/12/17
日本史でも世界史でも出てくる歴史用語が「封建制(ほうけんせい)」という言葉です。わかりやすく言うなら「土地を与えて保障する代わりに、忠誠を誓わせる」ということでしょうか。
元々は中国の周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)から端を発する制度で、周王は有力な諸侯と血縁関係を結んだうえで、土地を支配する権利を与えました。いわば土地に封じて国家を建てることから「封建制」という言葉が生まれたわけです。ところが周王朝が衰えたことで封建制は崩れてしまい、次の秦王朝では封建制が採用されず、皇帝を中心とした中央集権国家に生まれ変わっています。
いっぽうヨーロッパの封建制にも大きな特徴が見られました。8〜9世紀の西ヨーロッパでは異民族の侵入などが相次ぎ、人々は自己防衛の必要に迫られます。次第に有力者に土地を託した上で借り受け、主従関係を結ぶ者が増えていきました。やがて土地を保護してくれる代わりに忠誠を誓う関係性へと発展し、有力者は多くの臣下を抱えて勢力を増し、各地に城を築いて諸侯として自立していったのです。
しかし15世紀に入ると、王の元に権力を集中させる絶対王政が始まったことで、次第に封建制は崩壊していきました。
さて、ここからが日本の封建制です。
まず平安時代中期に武士が興ったことが始まりとなりました。戦いを生業とする武士団の中で主従関係が生まれ、やがて鎌倉幕府を開いた源頼朝の時代に形式化されます。将軍が土地の領有を認めたり、新しい所領を与える代わりに、御家人は幕府のために尽くすことが求められました。これを「御恩と奉公」と呼んでいます。
室町時代に入るとさらに発展し、将軍は各地の国へ任じられる守護大名に大きな権限を与えました。元からあった軍事や警察権だけでなく、次第に紛争に関する裁判や土地管理といった権限を握るようになり、守護大名はどんどん国衆や土豪の被官化を進めていったのです。その中には戦国大名へと脱皮して地方の一円支配を成し遂げる者も現れました。
戦国時代になっても封建制の基本的な考えは変わりません。大名が家臣の土地所有を認めることで主従関係が攻勢されていました。
しかし江戸時代になると、その関係性に微妙な変化が現れます。江戸幕府の基本スタンスは「天皇を頂点とした国」を掲げていて、将軍や幕府は天皇から政権を委任されたに過ぎず、全国の土地も国家に属するという考え方でした。
いわば古代日本の律令制に立ち戻るようなニュアンスですが、幕府はこれを社会秩序維持のために活用しています。天皇から政治を託された幕府に逆らうことは、つまり天皇への謀反であり、絶対に許されないことだと主張したのです。
同じ方法を豊臣秀吉も使っていますから、権力者にとっては都合の良い解釈だったのでしょう。実際には幕府が各藩の所領を保障していたのですが、あえて天皇を持ちだすことで不満が出ないシステムを構築していたのです。
ところが幕末になると、幕府は相次ぐ失政や批判の的に晒され、自ら政権を返上したことで幕藩体制は終わりを迎えました。広義ではこの時点で封建制の時代は終わったという見方ができるでしょう。
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