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京都・大徳寺龍源院「東滴壺」 は、室町と昭和を結ぶタイムトンネル!

塔頭(たっちゅう)24を有する京都紫野大徳寺(だいとくじ)。その中の塔頭の一つ、龍源院(りょうげんいん)は、戦国時代初期(1502年)に創建された塔頭です。

塔頭とは、祖師や高僧が亡くなった後にその弟子が師を慕って、禅宗の大寺や名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院を言います。

龍源院は、大徳寺では最古の塔頭。本堂となる方丈の周囲には、五つの庭園が置かれ、主庭の方丈南庭は一枝坦(いっしだん)と呼ばれる石庭です。西側には開祖堂(そしどう)の前庭が置かれ、方丈の北庭には足利将軍家に仕えた絵師でもある作庭家・相阿弥(そうあみ)による竜吟庭(りょうぎんてい)という名の苔庭があります。

また、細長い書院の南側には別名阿吽の石庭(あうんのせきてい)とも呼ばれる"こだ庭"が。そして今回のテーマとなる東滴壺(とうてきこ)は、方丈東側、庫裏との間にひっそりと置かれる壺石庭です。

東滴壺とは

東滴壺は、京都大徳寺の塔頭・龍源院に作られた枯山水の坪庭です。方丈と庫裏の間にある、4坪ほどの狭く小さいお庭。実は、日本で最も小さい石庭として有名なんですよ。でも、小さくても心に訴えてくるものは、大きな石庭と変わりません。この龍源院には、東滴壺をお目当てに訪れる参拝客も多いんですよ。

龍源院にある名だたる庭園に比べて、ひっそりと佇んでいる感が強い東滴壺。しかし、見る人に入り込んでくる力強さは、他の有名な庭園に引けを取っていません。そして、その造作もさることながら、わずかに空いた隙間から入り込んでくる光の造形が、なんともいえない美しさを表現しています。

閉鎖的すぎる空間

一般的に知られた庭園は、その庭に面して建つ建物以外は、塀で囲まれているくらいの開放的な空間になっています。遠くの景色が借景になったりして、実際の庭以上に大きく感じられるものです。

しかし日本最小の石庭である東滴壺は、3方を板張りの縁側というか廊下に囲まれ、もう4方目は、渡り廊下に取り付けられた隔壁で仕切られています。

東滴壺の東西面は、塔頭の実務を司る庫裏が東に、ご住職の居室になる方丈が西側に建っています。方丈側には1.2m・庫裏側には50cmほど外に張り出した縁側があって東西の縁側の間は約1.5m。つまりはこの1.5mが東滴壺の幅になり、奥行きは5mほどです。南側には茶堂廊下という屋根付きの渡り廊下があって、方丈の縁側と繋がっています。

外部なのに内部にいるよう

3方が屋外の廊下で1方が隔壁で仕切られた、閉鎖的な空間に作られた小さな庭園が東滴壺なんです。

開放的な遠景が見られるのは北側と南側の一部だけで、外部空間とは言いながら見事に閉鎖されたスペースになっていますね。ただし庫裏側の縁側は、参観者は立ち入り禁止なので、他の三方から見下ろす視線で東滴壺を眺めることになります。

東滴壺から遠景を見てみます。まず北側に向かって、茶堂廊下越しにこだ庭の西の端が見えます。植栽の緑も見えますが、まるでフレームの中の絵画のようで、遠景という感じではないですね。

そして北側は、隔壁の左側に空いたところから竜吟庭の東の端が望めます。東滴壺で季節が感じられる僅かな空間ですね。

東西側は建物の壁だけで遠景はありません。僅かばかりの遠景ですが、実際のところ、見る方は遠景の意識もなく気づかずに立ち去る方が多いようです。

複雑な石組み

僅か7.5㎡ほどの小さな東滴壺。白川砂と呼ばれる小砂利が敷かれ、南北方向に8本の縦縞が描かれています。北端部と南端には渦型をした波紋があり、滴りから拡がっているようですね。渦の外周はなだらかな傾斜で表面より少しだけ盛り上がっていますが、内部は掘り下げたような窪みになっています。

石組は、手短に説明をするのはかなり難しいのですが、不整形の石や岩はまるで山の姿のようで、見る角度によって姿を変えていきます。まず北側の渦形の中に二つの石があり、そのすぐ横にやや大きめの小岩。次に南側渦紋の中央には、高さのない平板な石が見られます。この平らな石が、この小さな石庭の要になっているようです。そして石組の中で最大の岩と寄り添うように並ぶ小岩があります。見る角度によって重なって一つにも見えますね。

東滴壺の屋根は偶然か

この小さな空間の東滴壺、上空は少し変化に富んだ形で仕切られています。庫裏・方丈の屋根の庇が坪庭の上を覆っているのですが、方丈の庇の方が庫裏からの庇より上部にあり、双方の先端部間には30cmほどの隙間ができています。

更に庫裏側には庇以外の構造物も張り出してきていますので、なんとも複雑な感じですね。これは偶然にできてしまった造形なのでしょうか。この複雑な隙間から差し込む光が、東滴壺を不思議で神秘的な雰囲気に包んでいるのです。

謎の人物、鍋島岳生

国内最小の坪庭とされる東滴壺ですが、実は作庭年代は想像以上に新しいんですよ。

鍋島岳生(なべしまがくしょう)によって、作庭されたのが昭和35年(1960年)なんです。一滴の波紋が大海になっていく様を表現していると言われますが、実際のところ、何を基準にした表現なのかかなり曖昧。

昭和の作庭師でありながら、鍋島岳生という謎の人物。佐賀藩主鍋島家の末裔という説がありますが、詳しいことはわかりません。その他にどんな庭を制作したのかも不明なのですが、東滴壺が彼の代表作なのは間違いないようです。

それほど遠い過去の人ではないのですが、禅の知識があったのか、それが作庭に影響を与えてたのかなども全てが不詳、ミステリアスですね。

室町時代と昭和を繋ぐタイムトンネル

この謎に包まれた東滴壺。作庭されるまではただの空間だったのでしょうか。それとも別の坪庭があったのか。はたまた、全く関係ない何かが建っていたのか。いろいろ想像をしてしまいます。

しかし一つだけ言えるのが、じっと東滴壺を見ていると、心は龍源院が創建された室町時代に飛んでいきそうになります。まさにこの小さな石庭は、室町時代と昭和を繋ぐタイムトンネルとして作られているのかもしれませんね。

東滴壺の石組みの中に唯一つある平坦な石。何かのキーワードになっているのではないかと前述で述べた通りです。実はこの平坦な石の上の空間、屋根の重なりが造り出す形は、平坦な石と同形になっています。

一般の人は東滴壺の中に立ち入ることはできませんが、この石の上に立てば上部の隙間から室町時代に通じるタイムトンネルに引き込まれる。そんな想像をしてしまう素敵なスポットが東滴壺なんです。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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