「お船の方」直江兼続生涯のパートナーとして公私にわたってサポート
- 2019/08/30
戦国時代の夫婦というものは、今のそれとは全く異なるものでした。当時は政略結婚が常態化していたので、自由恋愛による結婚という例は皆無に等しかったのです。
しかし、政略結婚によって成立した夫婦でも、恋仲に等しい関係の例がないわけではありません。その代表格ともいえるのが直江兼続とその妻・お船の方(おせんのかた)です。彼らの結婚生活は理想的なものでした。
兼続の妻「お船」 といえば、大河ドラマ「天地人」をご覧になられた方にとって、忘れることのできない人物の一人でしょう。そこで、この記事では兼続を支えたお船の生涯をまとめ、彼らの結婚生活を紐解いていきます。
しかし、政略結婚によって成立した夫婦でも、恋仲に等しい関係の例がないわけではありません。その代表格ともいえるのが直江兼続とその妻・お船の方(おせんのかた)です。彼らの結婚生活は理想的なものでした。
兼続の妻「お船」 といえば、大河ドラマ「天地人」をご覧になられた方にとって、忘れることのできない人物の一人でしょう。そこで、この記事では兼続を支えたお船の生涯をまとめ、彼らの結婚生活を紐解いていきます。
兼続との結婚に至るまで
最初の夫・直江信綱とは死に別れてしまう
お船は、弘治3(1557)年に上杉謙信に仕えていた直江家の当主景綱の娘として生まれました。父には男子の後継者が生まれていなかったため、お船は他家から直江家の後継ぎとして定められた直江信綱を婿に迎え、そのまま彼と生涯を共にしていくかに思われました。
しかし、謙信死後の後継者争い「御館の乱」が収束したあとの天正9(1581)年、信綱はその恩賞をめぐって引き起こされた上杉家臣らの争いに巻き込まれ、命を落とすことに…。そしてお船と信綱の間に子がいなかったため、直江家断絶の危機を迎えます。
これを案じたのが、御館の乱に勝利し、上杉家を継いだ上杉景勝でした。彼は腹心であった樋口兼続を直江家に嫁がせ、これ以降直江兼続が直江家を継いでいくことになるのです。
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以後、彼女は兼続の生涯ただ一人の妻として、彼を公私にわたってサポートしていくことになります。
兼続と良好な関係だった夫婦生活
兼続とお船の夫婦生活で特徴的な点はいくつもありますが、まずは兼続が生涯にわたって側室をもうけなかった点を挙げておきます。これは戦国時代の夫婦としては異例の形であり、さらに彼ら夫婦が決して子宝に恵まれていたわけでもないというのが特筆すべき点でしょう。
二人の間には一男二女が生まれましたが、初子はお船が32歳の頃に授かった子でした。当時は今よりも寿命が短い時代だったので、この年齢における初産は相当の高齢出産に該当するでしょう。しかし、不幸なことに高齢出産が災いしたのか、子どもたちは早々と亡くなってしまい、没年から推測すると彼女よりも長生きした子はいませんでした。
景勝の正室をいつも気にかけていた?
お船は景勝の妻である菊姫(武田信玄の五女 or 六女)とも良好な関係を構築していたようです。その証拠に、菊姫の姉である松姫にあやかって彼らの間に生まれた長女を "於松" と名付けたと伝わっています。
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お船は子宝にめぐまれず、実家の武田家も滅んでしまっていた菊姫のことを案じていたようです。天下が統一されていた豊臣政権下の文禄4(1595)年、彼女は菊姫に同行する形で豊臣秀吉の元へと向かい、上杉屋敷で人質生活を送ったとされています。
ちなみに彼女たちはただ黙って人質の立場を憂いていたわけではありません。前田利家の妻である "まつ" や秀吉の妻である北政所と積極的な交流を図り、都における情報収集に努めたと伝わっています。
秀吉の死後、俗にいう「直江状」などで知られているように上杉家、および兼続は徳川家康と対立を深めていったため、菊姫は妙心寺にかくまわれ、お船は米沢への逃亡を成功させました。
ところが慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの決戦で石田三成率いる西軍が敗れ去ってしまったため、上杉家は徳川との対立を諦めて和睦の道を模索するように…。家臣らが家康への謝罪に尽力したこともあり、なんとかお家断絶は免れたものの、上杉の領地は戦前の約4分の1に削られてしまったのです。
それでも上杉家は家臣の数を減らさなかったため、彼らに与える俸給や領地の配分に苦心したことでしょう。しかし、兼続は関ケ原以後、家康の腹心である本多正信らに接近し、徳川家との良好な関係構築に奔走していました。
その甲斐もあり、本多正信の息子・本多政重を長女の於松と婚姻させることに成功しています。
相次ぐ苦難に直江家の断絶を決断。
しかし、於松は本多政重との婚姻が成立した後、まもなくして亡くなっています。養子縁組も立ち消えになるかと思われましたが、兼続の懇願もあって政重はしばらく上杉家に仕え続けました。一方、於松の婚姻と同じころと思われる慶長9(1604)年に菊姫が死去。さらに景勝の側室であった桂岩院も上杉定勝を産み落とすものの、同年中に亡くなっています。こうした背景から直江夫妻が定勝を養育しています。
そして慶長20(1615)年には生まれつき病弱だった嫡男の直江景明も亡くなり、さらに松の死によって本多政重に跡を継がせるという計画も立ち消えになったことから、直江夫妻は他に養子をとらずに家の断絶を決断するのです。
兼続の死後、その遺志を継いだ余生を過ごす
戦後処理に腐心した兼続も元和4年(1619年)に亡くなり、それを見送ったお船は出家して貞心院を名乗るようになります。景勝も間もなく亡くなってしまった上杉家において、お船の存在は非常に大きなものとなっていたようです。その証拠に彼女は3千石という高給を取っており、晩年は藩政にまで参与したと伝わっています。
その他にも兼続がまとめていた『文選』の再刊を行うなど彼の遺志を実行に移したお船は、寛永14(1637)年に81歳で亡くなりました。
【参考文献】
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。
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