【家系図】直江兼続の出自のほか、家族や子孫も丸ごと解説!

直江兼続の家系図や家紋をとりあげ、その出自を探ると同時に、兼続ファミリーの面々を一挙に紹介。また、兼続の子孫関係についても触れていく。

兼続の出自と家系図

兼続は樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の長男として、坂戸城下(新潟県南魚沼市坂戸) で誕生。

樋口氏は元々本姓を中原氏と称しており、平安時代末期に中原兼遠の次男・中原兼光が信濃国で領した地名をとって「樋口兼光」と称したことから始まったという。兼光は木曽義仲の四天王の一人として知られ、兄弟には今井四郎兼平や巴御前がいる。

戦国期、一族は越後国へ移り住み、坂戸城の上田長尾氏に仕えた。ちなみに坂戸城は上杉謙信の姉・仙桃院の嫁ぎ先であり、のちの兼続の主君・上杉景勝の実家でもある。



兼続の父・兼豊も上田長尾氏に仕え、一説に家老として財政を担当したというが、元々は坂戸城で薪炭を扱う御用人だったともいわれている。また、兼豊には正室と継室の2人の妻がいたが、兼続の母はこの2人のどちらか、またはどちらでもないといい、諸説入り乱れている。

『藩翰譜』によれば、直江景綱の妹、すなわち正室の "お藤" と伝わるが、一方で『上田士籍』には、信濃国の豪族・尾崎重歳(泉重歳)の娘、つまりは継室の"蘭子" だという。


これまで兼続の母の定説は "お藤" であったが、近年の新たな文書の発見により、"蘭子"の説が有力になっているようだ。



兼続の兄弟姉妹

兼続には2人の弟、実頼・秀兼のほか、妹が3人いる。


実頼(さねより)

兼続の弟、兼豊の次男。天正10(1582)年、景勝の命で天神山城主小国重頼の養子となり、小国氏の家督を相続。慶長3(1598)年の上杉景勝の会津移封の際には、南山城主として2万1千石を拝領している。

慶長9年(1604)には、娘の阿虎が兼続養女として本多政重へ嫁がれることに反対し、政重を迎えるために上洛した使者を殺害したために出奔した。


秀兼(ひでかね)

兼続の弟、兼豊の三男。
事蹟はほとんどないが、樋口家の家督を継ぎ、大坂の陣で活躍したとされる。

兄の大国実頼に男児がなかったため、秀兼嫡男の光頼が大国家の後継者に指名されていたようであり、
実頼の死後に大国家の家督を継いでいる。このため、秀兼の二男・長兼が樋口家の家督を相続した。


きた(須田満胤室)

兼続の妹。上杉家臣・須田満胤(すだ みつたね)に嫁いだ。子に須田満統がいる。


女子(色部光長室)

兼続の妹。米沢藩士・色部光長(いろべ みつなが)に嫁いだ。


女子(篠井泰信室)

兼続の妹。篠井泰信(しののい やすのぶ)に嫁いだ。


直江兼続の妻子

兼続の正室は直江景綱の娘・お船(おせん)。兼続の母が直江景綱の妹の場合、兼続とお船は従兄弟ということになる。


お船

兼続の正室。直江景綱の娘。景綱には男児が無いため、跡継ぎとして婿養子として直江信綱を迎えた。だが、天正9(1581)年には恩賞を巡る紛争で、夫・信綱が春日山城内で毛利秀広に殺害されている。

その後、上杉景勝の命によって兼続を婿養子に迎えて再婚し、兼続との間に1男2女をもうけた。兼続とともに景勝の子・上杉定勝を養育している。

元和5(1619)年に兼続が死去すると、剃髪して貞心尼と号し、寛永14(1637)年に没した。


景明(かげあき)

兼続の嫡子で母はお船。幼名を"竹松"といい、のちに"平八"と改め、元服して上杉景勝から"景"の字を賜り、"景明"と称した。
慶長19-20(1614-15)年の大阪の陣に従軍したが、生まれつき病弱だったため、戦後まもなくして病没した。


於松(おまつ)

兼続の長女で母はお船。慶長9(1604)年に本多正信の次男・政重を直江家に婿養子として迎えたが、翌年に病死している。


女子

兼続の次女で、母はお船とされるが確証はない。本名は不明。慶長10(1605)年に姉の於松に先だって早世した。


兼続の子孫は!?

兼続の直系の子孫は、残念ながら断絶したのが定説だ。

兼続の3人の子は皆、兼続よりも先に亡くなっており、子もいなかった。そして養子も迎えなかったため、直江家は断絶したのである。しかし、兼続の傍系には子孫がいるようだ。


実頼の系統は加賀藩士

本多政重は兼続の長女(於松)の婿養子となったが、於松がまもなく病死したため、政重は兼続の弟・実頼の娘(阿虎)と再婚。
本多に復姓して上杉家を離れ、慶長17(1612)年には藤堂高虎の取りなしで加賀藩に仕えた。


阿虎との子(正次)は早世したが、曾孫が加賀藩馬廻役の青地家の養子となって青地定政を称した。
定政の子・青地礼幹は、寛保2(1742)年に加賀藩で大出世を遂げた大槻伝蔵の所業を本多政昌に告発したことで知られ、これをきっかけに加賀藩のお家騒動「加賀騒動」にまで発展したとされる。


秀兼の系統は米沢藩士

一方、本家の樋口氏は、兼豊三男の秀兼が後を継ぎ、江戸時代を通して米沢藩士として存続した。末裔には王子製紙株式会社の社長、会長を務めた大國昌彦氏がいる。

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戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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