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 2019/09/12

「菊姫」武田信玄の娘にして上杉景勝の正室となった女性

菊姫のイラスト

戦国期には、いくつか「宿命のライバル」とも呼べるような間柄が存在しました。その最たるものとしてもっとも著名なのが、甲斐武田家と越後上杉家の対立でしょう。武田信玄と上杉謙信によって無類の強さを誇っていた両軍は、川中島合戦をはじめとした数々の伝説を残しています。

ただ、戦国も終盤になるとこの両家は手を組むことになります。そこで登場するのが菊姫という女性で、今回は彼女の生涯を詳しく解説していくこととしましょう。
(文=とーじん)

武田と上杉による夢の縁組も実家が滅びる

永禄元(1558)年、菊姫は武田信玄の娘として生まれました。

彼女は信玄の五女ないしは六女であったというのが一般的な見方で、彼女は生まれながらにして政争の道具となることが義務付けられていました。

信玄は子女を同盟に活用することが多く、彼女の姉たちが次々と他家へ嫁いでいることからもそれは理解できるでしょう。しかし、結果として政略結婚を強いられることには変わりないものの、その嫁ぎ先は幼き日の彼女が予見していたものではなかったかもしれません。

この永禄年間(1558~1570)は武田氏と上杉氏の対立が激化していた時期で、まさか上杉氏に嫁ぐことになろうとは考えていなかったでしょう。しかし、信玄の死と長篠合戦での大敗によって武田の凋落が避けがたいものになっていくと、後継者の武田勝頼は宿敵であった上杉氏との同盟をもって勢力を維持しようと考えます。

ちょうどその時期の上杉氏も謙信の死によって勃発した家督争い(御館の乱)で家中は上杉景勝派と景虎派の真っ二つに割れて政情不安に陥っていました。そこで景勝は大量の資金と領土を犠牲にし、武田家との縁組を選択して味方につけたのです。

こうして武田側から景勝へ嫁ぐ女性を選ぶ必要が生じ、候補に挙がったのは菊姫と松姫という二人の未婚子女でした。

武田勝頼は当初松姫を嫁がせようとしていたようですが、彼女はそれを拒んで出家。そこで菊姫にお役が転がり込み、天正7(1579)年に景勝と婚約を果たしました。

しかし、その婚約からわずか三年足らずで実家の武田家が滅んでしまい、勝家ら彼女の兄たちも亡くなってしまいます。実家の後ろ盾を失ってしまった菊姫でしたが、景勝は離縁や冷遇をすることなく正室としての待遇を変えませんでした。

子宝に恵まれず、さらに大坂へと人質に出され…

実家という後ろ盾を失っただけでなく、菊姫は子をなすことができず苦境に追い込まれていったことと推測できます。当時は不妊が女性側の責任と考えられており、彼女を見る周囲の目はさぞ厳しかった事でしょう。

それでも景勝は側室を娶ることなく、息子が生まれなければ養子をもうけることで家を継がせようと考えていたようです。また、彼女は直江兼続の正室であるお船の方とも親しくしていたようで、彼女の娘につけられた「松」という名は菊姫の姉妹であった松姫に由来していると思われます。

こうして心細くも周囲に支えられていた菊姫ですが、文禄4(1595)年には豊臣秀吉より彼女を上洛させる指令が景勝の元へ届けられました。菊姫はお船の方とともに大坂の上杉屋敷へと赴き、以後は都で生活していくことになります。

菊姫は兄である勝頼をはじめとした武田一族が葬られている妙心寺を訪れると、その後秀吉が開山した祥雲寺という寺社でかつて妙心寺の住職であった南化と交流し、武田家を悼みながら仏教を学んだものと思われます。

また、彼女たちは大名屋敷が集まる都で政情の情報収集にも従事していたと考えられており、単に人質として不遇を嘆いていただけではありませんでした。

関ケ原後に景勝が側室をもうけ、それに絶望しながら亡くなったか

政情は豊臣秀吉の死によって大きく変化していき、上杉家は徳川家との対立を決定的なものとしていました。こうした状況でお船は越後へと帰国し、一方すでに病弱であった菊姫は現地に残りました。

当然彼女は戦局に関われませんでしたが、上杉家が属した西軍は関ケ原で大敗。彼らは敗者として家康による苛烈な処置を受けます。この時もまだ菊姫は伏見にとどまっていましたが、国元で景勝が側室を娶ったという情報をキャッチすることになりました。

景勝の立場からしてみれば敗戦によっていよいよ危機感を煽られたのか、はたまた側室に相成った女性の実家が四辻家という公卿の家系で心を揺さぶられたか、ともかく菊姫は唯一の妻という立場を失うことになります。

さらに、四辻の娘は結婚から間もなく子を懐妊しました。菊姫にもこの情報が届いていたのか、遠い伏見の地で日に日に衰弱していきます。景勝もたまらず上洛して見舞いに訪れましたが、翌慶長9年(1604年)にこの世を去りました。

米沢林泉寺(山形県米沢市)にある菊姫の墓所
米沢林泉寺(山形県米沢市)にある菊姫の墓所

なお、菊姫の死は上杉家公式の見解では「病死」となっていますが、史料によっては「自害」と表記しているものもあるようです。

彼女の置かれている立場を考えれば自害の動機もありますし、それを上杉家が隠したがる理由もあることから、こちらのほうが真実に近いのかもしれません。


【参考文献】
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。





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