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御陵衛士とは?高台寺との関係やメンバーを紹介
- 2022/10/18
新選組は京都の治安を守る京都守護職配下の団体。主に尊王攘夷の志士と対立し、「池田屋事件」などの活躍は有名です。
新選組は、実は何度か内部抗争を起こしています。そのひとつが「御陵衛士」という団体が新選組から離反したこと。いったいどのような事件だったのか、経緯やそのメンバーなどを見ていきたいと思います。
新選組は、実は何度か内部抗争を起こしています。そのひとつが「御陵衛士」という団体が新選組から離反したこと。いったいどのような事件だったのか、経緯やそのメンバーなどを見ていきたいと思います。
離反の経緯とは
伊東甲子太郎の加入からはじまる騒動
元治元年(1864年)10月、伊東甲子太郎はすでに新選組隊士であった同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟します。その後盟友数人もそろって新選組に加盟しました。伊東甲子太郎は参謀兼文学師範という役職に就き、人望は高かったと言われています。しかし、伊東と新選組はすぐにすれ違いが起こります。攘夷という点では合致していましたが、幕府方の思想である新選組に対し、勤王(倒幕)思想であった伊東との間で意見の違いがありました。
その後、伊東派は新選組離脱へ向けて動き出します。
離反できた理由とは
新選組には局中法度という厳しい規則がありました。そのひとつが「局を脱するを許さず」。つまり脱退することはできず、切腹を命じられることになります。伊東がいくら考え方が違うからと言って、容易に離脱できるようなシステムではありませんでした。また、一緒に加盟した弟をはじめ数人の隊士もいたため、全員そろっての離脱は至難の業でした。
伊東が策を練る
そこで策を練った伊東は、離脱するための理由付けを考えました。ちょうど孝明天皇が崩御されたタイミングだったため、その御陵を守る役割を担いたいとまず朝廷に申し出、その後局長・近藤勇に「これは離反ではなく〝分離〟であり、新選組の活動の一環である」という説明をしたのです。
納得したかどうかはさておき、1867年3月、伊東甲子太郎他14名(諸説あり)が分離することになりました。御陵衛士と新選組との間の行き来を禁止する約束も結ばれたようです。
この離反組は、孝明天皇の御陵を守ることから「御陵衛士」とよばれました。6月には高台寺へ拠点を移しました。
拠点が高台寺であったことから「高台寺党」と呼ばれ、現在ここには「御陵衛士屯所跡」の石碑がたっています。
御陵衛士のメンバーとは
伊東甲子太郎をリーダーに、その弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一の計15名と言われています。このうち、斎藤一は新選組から送り込まれたスパイと言われており、実際新選組に復帰しているためその可能性は高そうです。
他にも、後に合流を図ったメンバーがいましたが、合流はうまくいかなかったようです。
その後御陵衛士はどうなった?
11月、伊東甲子太郎は近藤勇に呼び出され、新選組幹部と酒を飲み交わしたといいます。表向きは良い関係を保っていたともいえるかもしれません。しかしその帰り道、待ち伏せしていた新選組隊士に襲われ絶命。そしてその騒ぎを聞き集まってきた御陵衛士たちまでも斬られ、数人が亡くなりました。
残った御陵衛士は解散となりましたが恨みを募らせ、翌月近藤勇を襲撃。命までは奪えなかったもののけがを負わすことには成功しました。
まとめ:新選組と御陵衛士の関係は根深い
御陵衛士についてご紹介してきました。新選組でありながら離反に成功した珍しいケースですが、やはり結果は粛清されてしまうというものでした。それほどに新選組は厳しい組織であったともいえるかもしれません。御陵衛士関連の史跡は観光地である高台寺・「ねねの道」や、お墓は東山区・丈六 戒光寺にあるので、興味がある方はぜひ訪れてみてくださいね。
<参考文献・参考サイト>
御陵衛士 wikipedia
丈六 戒光寺
市居浩一著 『新選組・高台寺党』 新人物往来社
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