「伊東甲子太郎」頑迷な尊王攘夷主義者は、坂本龍馬と並ぶ思想家だった!? 粛清された新選組参謀

伊東甲子太郎の肖像(出典:wikipedia)
伊東甲子太郎の肖像(出典:wikipedia)
 新選組でありながら、倒幕派に近い立場で活動した人物がいます。大河ドラマ『新選組!』や、マンガ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』にも登場した、新選組の参謀・伊東甲子太郎(いとう かしたろう)です。

 幼少時に苦学して学問と剣術を修行。江戸に出て、北辰一刀流道場の婿養子に入ります。尊王攘夷の志を持つ甲子太郎は、やがて新選組に加盟。上洛して隊の運営に関わることとなりました。時勢が討幕へと傾く中、甲子太郎は新たな道を模索します。討幕とは違った、坂本龍馬とも通じる穏健な公議政体論が、彼の脳裏にはありました。

 甲子太郎は新選組を脱退して御陵衛士を結成。大政奉還が決行されると、たびたび朝廷に建白書を上申します。しかし、かつての同志である新選組は甲子太郎を危険視。そして思いがけない結末が待っていました。

 甲子太郎は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。伊東甲子太郎の生涯を見ていきましょう。

水戸学との出会いと尊王攘夷

郷目付の家に生まれる

 天保5年(1835)、伊東甲子太郎は常陸国新治郡中志築村で、志筑藩郷目付・鈴木専右衛門(三四郎)忠明の長男として生を受けました。母は古代です。大蔵は諱は武明、初名は大蔵と名乗っています。

 志筑藩は八千石ほどの小藩で、厳密には旗本領となります。石高が三万石未満であるため、通常の藩のように城はありません。陣屋が築かれて領内統治が行われていました。

 父・専右衛門は志筑藩において郷目付を担当。一揆の取り締まりを担当する役職を任されていました。階層で言えば、鈴木家は下級武士にあたります。しかし鈴木家の屋敷は、陣屋の近くに存在し、西隣には侍医・金子寿仙の屋敷もありました。同藩においては、事実上の中級武士として遇されていたようです。

 しかし幼少の大蔵にやがて波乱が訪れます。父・専右衛門が家老と対立して出奔。大蔵は弟・三樹三郎と共に領外にある母方の里で暮らすこととなりました。大蔵の将来は、決して約束されたものではありませんでした。

優れた剣術と学識

 嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。世情は俄かに尊王攘夷に沸き立つようになります。尊王攘夷の一大拠点となった水戸藩では、藩を挙げて運動に邁進。朝廷から密勅を賜っています。

 若き大蔵は、水戸へ寄宿する道を選択。優れた人物から文武を学んでいくこととなります。剣術は水戸藩士・金子健四郎に神道無念流を師事。さらに尊王攘夷の思想である水戸学を学ぶ機会を得ています。移りゆく時勢の中で、大蔵は自らの能力を磨いていきました。

 教える側としても、大蔵は能力を発揮しています。当時、父の忠明は高浜村で村塾を開校していました。大蔵も村塾の教授となり、父を助けて教える側として持ち前の優れた学識を活かしています。

 大蔵の運命が動き出すのは、江戸に出てからです。文久元年(1861)、江戸に出た大蔵は深川の伊東誠一郎に入門。北辰一刀流の剣術を学んでいます。

 幕末において、北辰一刀流剣術は多くの志士たちが学んでいました。深川の伊東道場にも門下生は多く在籍。小旗本ほどの規模を誇ったと記録に残っています。

 誠一郎の死後、遺言と門人一同が大蔵を道場主に推挙。大蔵は誠一郎の娘・うめの婿養子に入り、伊東大蔵と名乗るようになりました。

新選組参謀となる

甲子太郎と名乗る

 一介の道場主であった大蔵が、歴史の表舞台に立つ時が訪れます。元治元年(1864)8月、かつての門弟・藤堂平助が新選組の隊士募集を行うために江戸に東下。道場を訪問して、大蔵を新選組に勧誘します。

 藤堂平助は当時、新選組の幹部を務めていました。池田屋事件でも見事な活躍を見せ、局長・近藤勇や副長・土方歳三の信任が厚い人物だったと伝わります。

 大蔵は近藤と面談して加盟を決意します。元治元年の干支が「甲子」であったため、名前を「甲子太郎」と改名。尋常でない決意と覚悟での入隊だったと伺わせます。

 甲子太郎は弟の鈴木三樹三郎や盟友の加納鷲雄らとともに上洛。行軍録では組長となり、参謀兼文学師範に任じられました。入隊当初から、既に甲子太郎は幹部格として扱われていたようです。門人らを引き連れての入隊と、甲子太郎の能力や人脈は、近藤らに高く評価されていたのです。

新選組の中の異端者

 甲子太郎には、尊王攘夷という目的がありました。しかし決して過激な行動を是とした訳ではありません。

 天狗党の乱では、参加を求められましたがこれを拒否しています。というのも、甲子太郎には日本人同士が争うことを是としない考えがありました。新選組の目的の一つには、同じく尊王攘夷が掲げられていますが、新選組の尊王攘夷は、佐幕思想に傾いたものでした。

 そうした中、新選組において甲子太郎は大きな悲劇に見舞われます。元治2年(1865)2月、総長・山南敬助が脱走。屯所に連れ戻されて切腹の処置が下っています。山南は甲子太郎とは同門の北辰一刀流に在籍しており、甲子太郎とも親しく交流していました。

 山南の死後、甲子太郎は総長職を兼任。近藤や土方から距離を置き始めた藤堂らと共に、独自の動きを取るようになります。慶応2年(1866)1月には、幕府の長州訊問使に近藤とともに同行。長州藩の寛典論を主張しています。

新選組の脱退と、御陵衛士の結成

 甲子太郎は、新選組を離脱する道を模索していました。本来、新選組の規律では脱退は認められていないため、早い時期から甲子太郎は薩摩藩に接近して機会を窺っていました。

 慶応3年(1867)1月、甲子太郎らが九州や西国への遊説に出発。京都を追われた三条実美らに新選組の分離を説明しています。そして3月。九州や西国での遊説を終えた甲子太郎は新選組脱退を表明します。

 通常なら新選組からの脱退は認められませんが、甲子太郎は朝廷から孝明天皇の陵墓守護の任を受けていました。さらに薩摩藩など討幕派の動向探索を目的として挙げ、近藤らの了承を取り付けるのです。この分離独立には、江戸以来の同志である加納や服部武雄、藤堂平助らも参加。総勢16名での脱退劇となりました。

 御陵衛士を結成した甲子太郎は、高台寺の月真院に拠点を構えます。討幕派の人物と交流を深め、御陵衛士は次第に反幕府的な色彩を強めていきました。新選組からは、御陵衛士への合流希望者が続出。佐野七五三之助ら10名や、幹部の武田観柳斎らも脱走をはかって粛清されています。


大河ドラマでも描かれた、伊東甲子太郎の「大開国」

 甲子太郎は、新選組離脱後から独自の行動を取りはじめます。朝廷に対する建白書の提出に、甲子太郎の思想が現れています。一通目では、兵庫の開港に反対。しかし三通目からは「大開国、大強国」を提唱するなど開国策に転じています。

 建白書では、大政奉還後の政体論についても言及しています。以下が概要となります。

  • 一同和心(旧幕府や討幕派問わず協力)
  • 人材登用
  • 新政府による畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)の直轄化
  • 公卿による新政府の樹立

 建白書の内容は、周囲からも高く評価されていたようです。薩摩藩士・吉井幸輔(友実)は、越前藩士・中根雪江に「尤も」とする書簡を送っています。

 吉井は他の薩摩藩士らにも同様の書簡を送り、甲子太郎と坂本龍馬を並べて評価していました。甲子太郎の思想は、武力討幕と捉えられがちです。しかし実際は、坂本龍馬や松平春嶽らと近い、穏健な公儀政体論を持っていたようです。

 かつて、甲子太郎は尊王攘夷派でした。水戸学の教えを受けている身であり、本来は開国や通商などの政策は忌み嫌うところです。しかし甲子太郎は、頑迷な攘夷主義に固執することはありませんでした。むしろ柔軟に開国へ転換を果たし、日本のあるべき姿を模索しています。実際に甲子太郎が組織した御陵衛士では、隊士たちに対して英語を学ばせていました。

油小路事件

 当然、新選組が黙って放置しておくはずはありません。御陵衛士に潜入していた斎藤一が、新選組屯所に帰還。御陵衛士による、局長・近藤の暗殺計画を暴露します。しかし計画の真偽は定かではありません。

 11月18日、甲子太郎は近藤の妾宅に国事談合を理由に招待を受けました。近藤や土方は甲子太郎を歓待。甲子太郎に対し、次々と酒を勧めて強かに酔わせます。帰途、泥酔した甲子太郎は夜道を歩いていました。当時の甲子太郎は、上機嫌で謡曲「竹生島」を口ずさみながら、提灯を掲げていたと伝わります。

 油小路の本光寺門前に差し掛かった時です。暗闇の低い場所から、槍先が繰り出されてきました。槍先は甲子太郎の左肩を貫通して、首筋に到達。槍を握っていたのは新選組隊士・大石鍬次郎でした。甲子太郎は目の前の敵一人を斬り捨て「奸賊ばら」と叫び倒れたといいます。

 かつて暗殺された、筆頭局長・芹沢鴨と同じく、泥酔の上での最期でした。享年三十四。墓所は戒光寺にあります。

 甲子太郎の死後、遺体は路上に放置されます。御陵衛士の藤堂平助や服部武雄らは、油小路に現れて遺体を駕籠に収容。直後に周囲から武装した新選組隊士たちが斬り掛かりました。油小路事件によって、藤堂や服部は戦死。御陵衛士は事実上壊滅に追いやられてしまいます。

 甲子太郎の業績が評価されるのには、時間がかかりました。大正7年(1918)に従五位を追贈。昭和7年(1932)に靖国神社へ合祀されています。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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