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【やさしい歴史用語解説】「謀反」
- 2023/02/06
「謀反」という言葉には、時の為政者や天皇、あるいは主君に対して反乱やクーデターをおこなうという意味があります。とはいえ広義には様々な定義があり、必ずしも目下の者が目上の者に対して造反することを意味するものではありません。ここでは具体的に謀反のケースを紹介したいと思います。
ケース1:政権打倒
まず一つには、政権を転覆したり、権力者を倒すという政治的な「謀反」が挙げられます。建武の親政(1333~1335)の際、後醍醐天皇に謀反を起こした足利尊氏などが好例で、この時の尊氏は朝敵とみなされて「追討の宣旨」まで受けてしまうものの、見事に官軍を打ち破っています。
また、室町時代に入ると、管領・細川政元による「明応の政変(1493)」が起こりました。第10代将軍・足利義材が不在の際に行われたクーデターで、政元は足利義澄を将軍に据えることで義材の追い落としに成功しています。
ケース2:危機的状況に見舞われる
次に、実行者が危機的状況にある中で行われる「謀反」もあります。例えば、何らかの嫌疑を掛けられたり、左遷や取り潰しに遭う可能性が高い時など、暴発的に発生するケースです。室町幕府第6代将軍・足利義教は暴君とされる人物で、当時の人々は「万人恐怖」と表現されるほど恐れていました。播磨守護・赤松満祐もまた義教に疎まれるようになり、播磨・美作の所領を没収される噂が立ったほど。そこで満祐は潰される前に謀反の決行を決意しました。自分の屋敷に義教を招待し、そこで暗殺に及んだのです。結果的に満祐は討伐されて落着となりますが、幕府や将軍の権威が失墜するという事態を招いています(嘉吉の乱、1441)。
同様のケースでは荒木村重もそうでしょうか。織田信長の覚えがめでたい村重は摂津の支配を任され、織田家臣の中でも異例の出世を遂げますが、部下が大坂本願寺に兵糧の横流しをしていることが発覚しました。
焦燥にかられた村重は「上様はきっと許すことはない」と思い込み、ついに謀反に踏み切りました。結果的に荒木一族をはじめ、多くの者の命が奪われ、謀反は失敗に終わっています。
ケース3:恨み
単純に恨みを抱いたケースです。理不尽な仕打ちをされた、もしくは名誉を傷つけられたといった理由で謀反に及ぶものです。幕末期、幕府大老に就任した井伊直弼は一橋派を抑え込んで強権政治を振るい、幕政を批判する諸藩の武士を捕らえて厳しい処罰を下しました。また水戸藩は狙い撃ちにされて藩主・徳川斉昭が蟄居を余儀なくされ、藩の名誉は失墜しました。
深い恨みを抱いた水戸藩士たちは桜田門外で襲撃に及び、とうとう井伊を討ち取ってしまいます。この事件で幕府の権威は地に落ち、倒幕の気運が高まることになりました(桜田門外の変、1860)。
ケース4:天皇御謀叛
最後にご紹介するのは「天皇の御謀反」です。天皇はもっとも高貴で臣民の上に立つお立場ですから、謀反というのは少し違和感があります。ところが鎌倉時代末期、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した際、幕府側はこれを「天皇御謀叛」と呼びました。実は政治を執行する幕府こそが公儀であり、社会秩序を維持するには天皇であっても従うことが求められたのです。すなわち天皇の倒幕計画は幕府の存在を否定するものであり、国家の方針に従わないことが「謀反」とみなされたわけです。
「謀反」と聞けば、単に主君に逆らう行為と見られがちですが、実際にはもっと広い意味があったのです。
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