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【やさしい歴史用語解説】「法難」
- 2024/12/17
歴史用語として頻繁には出てこない「法難(ほうなん)」という言葉ですが、仏教の特定宗派にとっては忘れられない意味を持つものです。簡単に言うと、仏教の特定宗派、あるいは仏教徒の一部が国家権力や異教徒などによって迫害・弾圧されることを指します。特に被害を被った側から表現される言葉でしょうか。
日本で仏教自体が否定されることはありませんが、世界を見渡せば事例はいくらでもあります。例えば北西インドを支配したミヒラクラ王は大規模な仏教弾圧をおこなっていますし、中国大陸でも5~6世紀にかけて、四皇帝による廃仏と経典の焼却などが断行されました。
さて、日本に目を向けると、時として教義や政治的思想の違いから、ある特定の宗派が弾圧されていることに気付くでしょう。理由は鎌倉仏教という新しい宗派が生まれたことにあります。特に浄土宗は「念仏を唱えるだけで極楽往生できる」と説いたため、旧来の仏教勢力から反感を買いました。
こうした理由から、延暦寺や興福寺といった古くからの権威は、浄土宗を創始した法然を目の敵にし、たびたび嫌がらせを繰り返したそうです
元久元年(1204)、比叡山の僧徒たちは念仏を止めるよう要求するべく蜂起し、これを後鳥羽上皇も支持しました。さらに「法然の弟子たちが院の女房と密通している」とのデマが広がります。こうして責任を問われた法然は讃岐へ流され、浄土真宗の創始者である親鸞もまた越後へ流罪となりました。
また、時の政治を批判したことで弾圧されたケースも存在します。
日蓮宗の宗祖である日蓮は、当時流行していた浄土宗に激しく反発し、次のように説きました。
しかし執権・北条長時は浄土宗の支援者であり、日蓮の教えは到底受け入れられるものではありません。そこで日蓮を捕らえて伊豆へ流罪に処し、事態の鎮静化を図ったのです。
ようやく赦免された日蓮ですが、鎌倉へ戻っても変わらず幕政と諸宗の批判を続けました。やがて捕えられた日蓮は龍ノ口刑場へ護送されますが、たちまち稲光が発し、討手の太刀が折れるといった怪異現象が起きたため、処刑は中止となって佐渡に流されることになったそうです。新しい仏教宗派が生まれる時、やはり為政者や他宗派からの反発は避けられないというところでしょうか。
そして戦国時代、仏教教団は強大な勢力として成長することになります。それが一向一揆や根来寺に代表される武装集団の存在でした。これには時の為政者も手を焼き、信長や秀吉なども鎮圧に苦慮しています。
一向一揆の場合、信長が顕如と和睦したことで急速に勢いを失い、根来寺もまた秀吉の紀州征伐によって屈服しました。やがて江戸時代になると、檀家制度をはじめとする幕府の統制政策とともに、明らかに「法難」といえる事例はなくなっていくのです。
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