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【やさしい歴史用語解説】「譜代と外様」
- 2024/10/16
「譜代」と「外様」といえば、江戸時代の幕藩体制を真っ先にイメージしますが、大名の格式を意味するだけではありません。すでに鎌倉時代から譜代・外様の概念は定着していました。
わかりやすく言えば「譜代」とは代々同じ主家に仕える家臣を意味します。いっぽう「外様」の場合は、譜代以外の家臣を指しました。例えば仕えてから年月が浅いとか、主家との関係が希薄だというケースでしょうか。
また時代によって、「譜代」と「外様」の意味するところは大きく異なります。それぞれの時代について解説していきましょう。
まず鎌倉時代で「譜代」といえば、北条得宗家に仕えた御内人(みうちびと)を指します。北条得宗家の実力が全国へ及んだことで、御内人たちは幕府の要職に就いたり、広大な領土を独占しました。これがのちに御家人の不満へと繋がっていきます。
いっぽう「外様」ですが、これは御内人以外の一般御家人を指しました。「外様御家人」とも呼ばれ、鎌倉時代後期になると外様御家人と御内人との対立が深まり、霜月騒動へと発展しています。
次に室町時代になると、「譜代」と「外様」は大名の格式を指すものへと変化しました。足利氏の一門に準ずる家格が「譜代」と呼ばれ、高氏や細川氏・仁木氏らが該当します。いっぽう「外様」は譜代以外の一般守護大名を指し、赤松氏・山名氏・土岐氏などが連なります。ちなみに斯波氏・畠山氏といた大名は、鎌倉時代から足利氏に準ずる扱いを受けていたため、譜代以上の格式があったようです。
また足利将軍家に奉公する公家衆にも譜代と外様の格式の違いがありました。「内々」と呼ばれた譜代格の公家は日野氏・広橋氏・烏丸氏などが連なり、「外様」の公家衆には上冷泉氏・勧修寺氏・万里小路氏などがいます。ちなみに外様ですと役目は一代に限って奉公すると定められていました。
さて、戦国時代の大名家にも同様の仕組みがあったようです。戦国大名に仕える家臣といってもさまざまで、主家に初めから家臣として仕えた家柄を「譜代衆」などと呼んでいました。また古くから一定の地域を支配していた家臣を「国衆」あるいは「国人」と呼んでいます。たしかに国衆は外様と呼べなくもないですが、大名の方針によって血縁関係が結ばれるケースもあるため、一概には言い切れません。純粋に「外様」と呼べるのは、新しく仕えた家臣すなわち新参者ということになるでしょうか。
また武田氏に仕えた真田昌幸や、徳川氏に仕えた井伊直政のように、外様の立場から譜代衆に抜擢された武将もいますから、実にさまざまなパターンがあったようです。
そして江戸時代になると、幕藩体制の成立とともに「譜代大名」「外様大名」として大名家は明確に区別されました。とはいえ、伊達氏や前田氏のように、外様でありながら譜代大名以上の格式を持つ家もあります。
また面白いことに、転封で国替えされるのはいつも譜代大名ばかりで、外様大名の多くはほとんど動いていません。なぜなら譜代大名は古くから徳川氏に仕えてきた家柄ですから、いわばサラリーマンと同じです。幕府(本社)の命令があれば直ちに言うことを聞かねばなりません。だから定期的に転勤を命じられたのです。
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