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【やさしい歴史用語解説】「徳政令」
- 2024/06/11
「徳政」とは、債権者や金融業者に対して債務放棄させるという意味になります。簡単に言えば「借金をチャラにする」ということです。「徳政令」というだけあって、幕府や時の為政者が出したものですが、なぜそんな乱暴極まりない法令を出したのでしょう?
「徳政」は奈良・平安時代から存在した言葉らしいのですが、法令として初めて出されたのが鎌倉時代のこと。永仁5年(1297)に執権・北条貞時が発令したものです。元寇による社会不安や恩賞への不満がくすぶっていた時代で、御家人たちは経済的に困窮していました。
また御家人の相続制度にも大きな問題があったようです。当時は子供それぞれに土地を分割相続させていましたから、代を重ねることに土地がどんどん細分化されていきます。戦いで恩賞にあずかり、土地をバンバン増やせれば良いのですが、肝心の戦いすらほとんど起こりません。次第に御家人たちの生活は苦しくなり、借金で首が回らなくなる者も増えてきました。
そんな中、御家人たちの不満の矛先となったのが北条得宗家です。何せ広大な領地を持ち、被官たちをどんどん出世させるわけですから、不満を買うのは当たり前のことでした。そこで苦肉の策として徳政令を出し、借金を棒引きにすることで不満を逸らそうとしたわけです。
そして室町時代に入ると、徳政令のニュアンスが違ってきます。馬借や車借といった運送業者、あるいは農民など多額の借金を抱える者が、幕府に対して「徳政令を出せ」と要求したのです。有名なものは正長元年(1428)に起こった「正長の土一揆」でしょうか。近江の馬借が起こした一揆をきっかけにして、近畿一円の農民が徳政令を求めました。さすがに幕府は徳政令を出すことはありませんでしたが、奈良の興福寺などは大和国に限って徳政令を出したとされています。
また、戦国時代には大名が限定的に徳政令を出すこともありました。享禄元年(1528)には甲斐の武田信虎が災害に遭った領民を救うべく徳政令を発布していますし、北条氏康も永禄2年(1559)に民政を安定させる目的で徳政令を出しています。正長の土一揆が起こって以降、将軍や大名が代替わりするごとに徳政令を出す慣習が広まったようです。これを「代初めの徳政」と呼んでいます。
さて、江戸時代になると、公式に徳政令が出されることはありませんでした。ただし、類似する法令として「棄捐令」というものがあります。
これは困窮する旗本・御家人を救済するべく発布されたもので、内容はやはり「借金を棒引きにせよ」というものでした。ところが借金をチャラにするだけでは根本的な解決とはなりません。旗本たちはまたしても困窮して金を借りようとするのですが、金融業者も借金をチャラにされてはかないません。旗本たちが思うように借りられなくなったことで、その不満は幕府へ向かいました。
こうして棄捐令はまったくの不評に終わり、あっけなく廃止されてしまうのです。
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