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【やさしい歴史用語解説】「兵農分離」
- 2025/06/24

江戸時代における幕藩体制の基礎となったのが「兵農分離」だとされています。読んで字の如く「武士と農業を分離する」意味になりますが、そのキッカケを作ったのが織田信長でした。
信長は若い頃から常備軍団の創設を目指していたといいます。当時の在地武士は合戦へ出陣する一方、平時は農地の耕作に携わるのが当たり前でした。また、武家の次男・三男は家督を継げないことから部屋住みの身分になるか、わずかな土地を耕すしかありません。そこで信長が目を付けたのが、そんなあぶれ者たちを直臣にすることだったのです。
母衣衆として活躍した前田利家や金森長近、さらには丹羽長秀も次男ですから、まさに即戦力としてうってつけでしょう。やがて次男・三男を中心とする常備軍団が編成されました。これがのちに桶狭間の戦い(1560)における中核戦力となります。
さらに小牧山城→岐阜城→安土城へと本拠地を移していった信長は、家臣たちに城下への集住を命じました。その狙いは彼らを農地から引き離すことにあります。つまり、兵農分離することによって武士の在地性を否定し、戦いを専門とする集団を作りたかったに相違ありません。
ところが天正6年(1578)、安土城下にあった家臣の屋敷から失火したことで、多くの家臣が尾張に家族を残していることが発覚しました。これに激怒した信長は、尾張にあった彼らの屋敷を焼き払わせたといいますから、その決意は相当なものだったのでしょう。
やがて豊臣秀吉の時代になると、兵農分離は本格化していきます、全国に太閤検地を実施して度量衡の統一を図り、さらに田畑のランク付けを行いました。また土地における複雑な領有関係を撤廃し、一人の農民が年貢を納めるという制度に改めています。

そして太閤検地とともに画期的な施策だとされたのが「刀狩り」です。戦国時代はアメリカの銃社会も真っ青の武器社会ですから、ありとあらゆる場所に刀槍があふれていました。一致団結して向かってくる民衆ほど怖いものはありません。秀吉は諸大名に「惣無事令」、庶民には「喧嘩停止令」を出す一方で刀狩りに踏み切りました。
「差し出した刀は方広寺の大仏、あるいは釘などに再利用しよう。そうすれば百姓たちも救われるだろう。」
そんな名目で実施されたわけですが、これで民間にあふれていた刀は全てなくなったのか?となると話は違います。
まず、武器類を供出する際、役人が村々を回って集めるわけではありません。村落ごとに差し出す自主的なものでした。また自己申告制ですから、武器を隠そうと思えばいくらでも隠せたようです。役人もいちいち確認のしようがないため、民間には膨大な武器が残り続けたといいます。また、当時は庶民も元服の儀式をおこなっていましたから、脇差を帯びることが大人への通過儀礼となっていました。いわば刀を持つことが誉れであり、一人前と認められる証となったわけですね。
いくら秀吉が天下人でも社会の通例や習慣を無視するわけにはいきません。やがて線引きは曖昧になっていき、庶民が公然と刀を差していても咎められることはなかったとか。
真の意味で兵農分離が達成されるのは、実は身分が固定される江戸時代まで待たねばならないのです。
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